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関東大震災からの復興 「支援外交」で進んだ産業国際化 「民間企業からの震災復興」木村昌人・関西大客員教授に聞く㊦

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100年前の関東大震災は、日本が軽工業中心から重化学工業に移る過渡的な経済成長期に発生した。甚大な損害を被ったものの、長期的には新しい需要を生み出し、東阪企業の人的交流、産業の国際化などを促した。被災地救援へ動いた企業の活動は現代のESG(環境・社会・企業統治)経営に通じる面があったかもしれない。「民間企業からの震災復興」(ちくま新書)の著者、関西大の木村昌人客員教授に聞いた。

「阪物」の低評価を跳ね返した関西系企業

木村氏は「東京・横浜は、被災による混乱が一応落ち着くと地盤の固い郊外に新しい住宅地を造成し、新たな交通手段として自動車・航空機、情報通信としてラジオ・無線・電話などの産業が新たにクローズアップされた」と話す。さらに各企業の活動範囲が大きく拡大したという。「東京・横浜の経済人が関西を中心に各地へ流出し首都圏の経済・文化が全国に普及した」と木村氏。

米国でのヒット商品「シャープペンシル」を発明した早川徳次は工場・家族を失って大阪に移転し、早川金属工業研究所(現シャープ)を設立して鉱石ラジオを商品化した。ユーハイムは横浜市で被災した創業者のドイツ人が神戸市に移住し、同市が洋菓子業界の中心のひとつとなる先駆け的役割を果たした。エンターテインメント界では吉本興業が社員を東京・横浜へ派遣。東京落語の代表格だった三代目柳家小さんや五代目柳亭左楽らを探し出し毛布・慰問品を手渡して励ましたという。「10月以降は東京の大物演芸人が、恩返しに相次ぎ来阪し吉本の業容拡大に貢献した」(木村氏)。

関西企業の東京進出も相次いだ。大阪で出発した「国誉」(現コクヨ)の課題は東日本市場の開拓だったが、「阪物(はんもの、廉価であるが品質の悪い品)」と見なされ伸び悩んでいた。木村氏は「震災の際に、創業者の黒田善太郎は出荷製品を厳重に検査した上でほかの地方より安い価格で出荷した」という。関東の有力問屋からの信用を一気に高めたことが販路拡大につながったとしている。

武田薬品工業は当時、豊富な在庫品を保有しており、政府の応急拠出要請に大阪から陸路の北陸線経由、海路の芝浦への荷揚げで対応した。その後も東京の薬種問屋組合などが次々求める大部分の薬品を、売り惜しみすることなく一括して売り渡したという。木村氏は「コクヨ、武田薬品は暴利をむさぼることなく、被災者の立場に立って良質かつ定価で供給した。消費者らの信頼を得たことが震災後の首都圏市場開拓につながった」と結論している。

サンフランシスコ地震救援が生んだお返しの支援

産業が国際化したことも震災後の特徴だ。海外から真っ先に支援を申し出たのが米国。クーリッジ大統領は太平洋方面に展開している米艦隊に救援物資などを積載させ、日本に回航させるなど救援第一の姿勢を鮮明に打ち出した。木村氏は「当時の米国内では日本人移民排斥の動きが顕著だったが、1906年におけるサンフランシスコ地震での日本支援の記憶が呼び覚まされたようだ」と指摘する。サンフランシスコ地震では明治天皇から20万円、民間からは渋沢栄一らの指揮で寄付金約15万円を米国へ提供しており、海外支援全体の5割を超えていたという。

震災直後から多くの米国船籍が殺到し、日本政府は海外からの支援は「カネ、ヒト、モノ」の順に受け取るとの針を決めたという。民間の義援金は総額約1060万ドルに達した。「中国も一時反日運動を抑えて食料・医薬品を日本へ送り、ソ連(現ロシア)からも救援の申し出があった。しかし、米国の支援が質量ともに圧倒的だった」と木村氏。

支援外交を通じ、日本の実情をよりよく知った米国企業の日本進出も本格化した。鉄道や路面電車の復旧に時間がかかる中、自動車の利便性が注目され東京市は公共バスとしてT型フォード車800台の購入を決めた。米フォードは1925年に「日本フォード」を設立し横浜市に生産拠点を完成。「当時としては日本最大の自動車工場で震災復興の大きな産業的裾野を形成することになった」と木村氏。自動車部品を製造する東京の中小企業が増加し、昭和初期の東京の「円タク」(一律料金1円のタクシー)はT型フォード車が約9割を占めたという。27年には米ゼネラル・モーターズ(GM)も日本に本格進出した。

帝国ホテル、日本郵船……震災当日に果たした活動

「関東大震災は企業の社会的な使命を示す契機にもなった」を木村氏は指摘する。三菱財閥のトップ、岩崎久弥は東京・湯島の1万2000坪の私邸を開放して数千人の被災市民を受け入れたという。住友財閥の当主、住友友純は支援金を寄付したほか、住友合資会社も食料と医薬品などを東京に届けた。

帝国ホテルは大震災発生の日が新館落成式の当日だった。日比谷公園に集まった被災民にロビーなどを開放して数百人を収容したという。日本郵船は横浜で修繕中だった「三島丸」に3000人の被災者を収容。東阪の海上交通の維持に注力したほか首都圏の避難民を国内各地に、約2000人の中国人避難民を上海・香港・天津へ移送した。約20日間の船客と積み荷の輸送は無償だったとしている。各地方の企業はまず東京に勤務する自社社員の安否を確かめ、続いて救援物資提供に力を尽くした。「マクロ統計の数字に表れてこないところに、経済人の救援事業への情熱や、したたかな企業家精神を感じる」と木村氏は語る。

現在のESG経営で「S」(社会)はダイバーシティー、格差、労働問題などで取り上げられることが多い。大規模な自然災害に直面したときに、どう社会に貢献するかも重要な「S」といえる。今日の経営トップは、かつての財閥当主らのように個人的に貢献するには限界があるだろう。「それでも自然災害に直面したときに、経済人は自社会社員の安全や被災地域の救援などでリーダーシップを取る準備を平時から用意してほしい」と木村氏は話している。

(松本治人)

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