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関東大震災100年 復興へ渋沢栄一が結束させた経済人 「民間企業からの震災復興」木村昌人・関西大客員教授に聞く㊤

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M(マグニチュード)7.9の大地震が東京・横浜など首都圏を直撃した関東大震災(1923年9月1日)から100年。死者・行方不明者は10万人を超え、被害は国民総生産(GNP)の35%以上に達した。しかし、実質GNP伸び率は23年こそマイナスに落ち込んだものの24年には10%を超えるプラスへと上向き、東京市の人口も25年にはほぼ被災前のレベルに戻ったという(中心部を除く)。日本経済のV字回復を主に担ったのは復興へスピーディーに動いた経済人や企業だった。「民間企業からの震災復興」(ちくま新書)の著者である関西大学の木村昌人客員教授に聞いた。

震災直後に浮かび上がった「加古川遷都論」

「震災復興の道のりは『遷都』の模索から始まった」と木村教授。東京は江戸時代から地震や火山噴火など自然災害の多かった土地柄だ。関西系の新聞が再遷都を促す記事を掲載するなど、震災直後はさまざまに取り沙汰されたという。陸軍参謀本部は9月6日、極秘に今村均少佐(後に大将)へ遷都案の作成を命じ、今村は(1)ソウル南部・竜山(2)兵庫・加古川丘陵地帯(3)八王子――の3案を示したという。

(1)には大陸進出をうかがう陸軍の意向が読み取れ(3)は緊急避難的な意味合いが強い。有力なのは(2)の加古川案で、木村氏は「自然災害が少なく温暖な気候で軍事的な防空にも適していた。米ワシントンを模範として皇居・政府機関・教育施設を移設する計画だった」と指摘する。ワシントン・ニューヨークの関係を加古川・阪神地域になぞらえたという。現在の東京一極集中状態を緩和できたかもしれないと木村教授は話す。

しかし、東京市民の動揺を懸念した第2次山本権兵衛内閣は9月12日に「遷都せず」とする詔書を発して事態の収拾をはかった。以後の復興計画をリードしたのは2度目の内相に就任した後藤新平(1857〜1929)で、当初は約30億円(当時の国家予算は約14億円)という大規模な構想を提唱した。

被災以前にそのまま戻す発想はなし

一方で経済人も素早く動いた。欧米を視察し1日はスエズ運河を航行中の藤山雷太・東京商業会議所会頭に代わり民間パワーを結束したのが、当時83歳の長老・渋沢栄一(1840〜1931)で、4日に後藤と会談。「被災者収容・炊き出し・災害情報板の設置・臨時病院の確保など、公的な行政手段では手が回りにくい分野を渋沢は財団法人を通じて進めた」と木村氏。さらに9日に服部金太郎(服部時計店)ら経営トップ約40人と支援組織立ち上げを決め、11日には医師の北里柴三郎らも加えた「大震災善後会」(徳川家達会長、渋沢は副会長)を設立した。こうして国内から集まった義援金・物品は約7000万円(現在の約2100億円に相当。皇室からの恩賜金1050万円を含む)に達したという。渋沢は海外の経済人20人あまりにも被災状況を知らせ、援助を求める書簡を送った。

続いて近未来の人口増加や高速鉄道の普及などに備えた都市として、東京を再建しようという復興構想を渋沢は打ち出した。被災以前にそのまま戻す発想はなかった。「江戸城の城下町という軍都の色合いが強い東京を、国際ビジネスの中心となる商都に改造する強い意欲を見せた」と木村氏は指摘する。大倉喜八郎(大倉財閥設立者)、浅野総一郎(浅野セメント社長)ら後輩世代の経済人とともに①京浜運河開削(京浜工業地帯へのインフラ整備)②横浜の自由港化③東京築港④港湾へのアクセス向上へ大型道路建設――などのアイデアを詰めた。

一方、山本内閣は後藤内相を中心に、新設した帝都復興院で焼失区域以外を含んだ主要幹線道路・公園・広場の設定、上下水道の改定、運河や橋梁の改修・新設などの計画大綱を決めた。渋沢はその妥当性を論議する帝都復興審議会のメンバーに就いた。閣僚のほか元老クラスを網羅したもので、渋沢が政府の関係機関に関わるのは大蔵省退官から50年ぶりだった。

後藤と渋沢は、仕事の進め方も人間としての肌合いも随分違ってみえる。医師出身者としての科学的合理性を売り物に、台湾総督府民政長官、満鉄総裁、鉄道院総裁、外相、東京市長などを歴任した、テクノクラート(技術官僚)的な大物政治家の後藤。対して渋沢は豪農、幕臣、慶喜側近、新政府官僚と幕末・維新の動乱を切り抜けた苦労人の「日本資本主義の父」だ。大風呂敷と異名を取る後藤に、渋沢は「論語と算盤(そろばん)」で、算盤は外せない。実際、渋沢は「白紙の上に図を引くようなわけにはいかない」「金も無いのに計画ばかり立派であったところで仕方がない」と内心は批判的でもあった。

しかし、審議会の場では渋沢は後藤を側面支援した。後藤の政府案が貴族院議員や枢密顧問官らから集中的に批判されると、会議のまとめ役として巧妙に反対派を取りなした。木村氏は「渋沢は全てに賛成したわけではないが、東京築港や京浜運河といった未来都市への視点が、後藤と一致していた」とみる。ビジョンは壮大でも丁寧な説明が後藤は得意ではない。会議が紛糾すると渋沢は議論をリードして妥協点を探し、大幅修正した上での政府案承認にこぎ着けた。「『大風呂敷』のほつれを丁寧に繕う役割を渋沢はこなした」と木村氏。ただ予算額は大きく削減され、渋沢の構想が具体化したのは20世紀後半に入ってからになる。

それでも「遷都しない方針や経済界の前向きなエネルギーは、東京が復興していくという明るい見通しを人々に与えた」と木村氏は分析する。震災直後は関西方面などへ人口流出が続いたものの、焼け跡への復帰者は11月に約49万人、翌24年3月に76万人と東京市西部を中心に増加し続けたという。

設備を一新して復興需要に応えた東京の中小

本格化した復興需要に、以前から集積していた東京の中小企業がまず応える形になった。木村氏は「起業家精神が旺盛な東京の中小経営者は、倒壊した旧式設備を一新して経営立て直し、業容拡大を目指した」と指摘する。中小企業であるがゆえに巨大な投資は不要で小回りが利いた。「新たなニーズを東京地域内で好循環させて復興の起点をつかんだことが新規参入を促し長期的な東京の成長につながった」と木村氏は分析する。

震災後の東京には、耐震性の高い鉄筋コンクリート作りの駅・オフィス・寺社・集合住宅などが相次ぎ登場し、それがさらに新たな需要を生み出したという。再建した百貨店の店舗は高層化で売り場面積が拡大し顧客が急増、多様化した。このため百貨店の女性店員も増加し「デパートガール」は花形職業のひとつになった。加えて関東大震災は東京の郊外化に拍車をかけ、東武・京王・西武などの各私鉄の路線拡大を促した。木村氏は「東急トップの五島慶太は従来から進めていた沿線の多角化開発に加え、高等学校を誘致して双方向の乗客を確保した」と話す。

輸出産業が国内市場を開拓したケースがニチロ(現マルハニチロ)だった。1910年から始めたカムチャツカ半島の紅サケの缶詰は主に英国向けに出荷され、国内消費者への知名度は低かった。震災での配布で保存力が高く評価され、新商品開発につながったという。

復興需要は東京のど真ん中でトップ企業を生み出しもした。化粧品業界3位だった資生堂は、被災者を中心に衛生上から石鹸(せっけん)の需要が高まる中で被害が大きかった上位2社を追い抜いた。木村氏は「資生堂は便乗値上げをせずに被災者に石鹸を配布した。それが同社の信用を一気に高めた」と指摘している。

(松本治人)

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