経済産業省は、人的資本経営を、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」としています。2022年5月に公表され、その方向性を明らかにした「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書〜人材版伊藤レポート2.0〜」では、8つの取り組みが強調され、7番目の「社員エンゲージメントを高めるための取組」の中で、「健康経営への投資とWell-beingの視点の取り込み」が掲げられています。
この人的資本経営はこれまでの人的資源管理とは異なります。後者が人材には人件費等のコストを要するので、これを最小化する方向性があるのに対し、前者では人材を投資の対象と捉えて生産性を向上させ、組織への貢献を期待する考え方です。
少子化が日本で指摘されるようになったのは1970年代からですが、50年近くの間、改善されないまま現在に至った結果、従業員規模にかかわらず企業の人事部門の方々は人材の確保に悩むようになっています。また多くの職場で年齢層のばらつきが激しく40代未満の人数が少なく、事業運営の継続が将来危ういケースすらあります。
これに対する打ち手は主には3つしかありません。まず、若いZ世代の採用を成功させ、早期の離職や新型コロナウイルス感染症の影響もあって過去より生じやすい心身の不調を防止し、次世代を担う人材として育成していくこと。次に60歳前後からそれ以降のシニア層に頑張っていただくよう安全衛生管理、健康管理と共にキャリアや処遇を工夫していくこと。そして、働く人の半数近くを占める女性にこれまで以上に活躍していただくこととなります。けれども、従来型の健康管理やメンタルヘルス対策では、女性活躍を支える健康支援には足りない、という現実があります。
女性の健康支援で求められる対策と課題
性別にかかわらず、職場で常時雇用される方々には一般定期健康診断の受診やストレスチェックの受検の機会があると思います。就業規則等のルールでがん等の病気の際に療養が可能になる制度が整備され、産業医等の専門家が関わってくれるのであれば、治療を続けながら就労が可能になります。ところが、これだけでは女性に十分に活躍していただくには不十分であることを強調したいと思います。
就労する年齢で起きやすい女性特有の子宮がん、卵巣がん、男性にもあり得る乳がんも重要な課題ですが、検診の受診率が十分ではないという問題があります。
加えて、戦前のように女性が多産であった時代とは異なり、10代から50歳前後まで4週間から5週間ごとに月経となるのが現代の女性の標準と言えます。その都度、体調不良に悩むケースが少なくないのですが、その点を考慮してもらえる環境はまだ稀(まれ)なのかもしれません。読者がお勤めの職場の就業規則には「生理日の就業が著しく困難な女性労働者から請求があったときは、必要な期間休暇を与える」という生理休暇に関する条文があるでしょう。ところがそれは必ずしも有給とは限らない上、上司が男性の場合、言い出しにくかったり、女性同士の気兼ねもあったりして、生理休暇を取得していない女性が8割を超えるという調査があります。男尊女卑が今より著しかった昭和の頃の方が生理休暇を取得しやすかったという意見も人事労務の関係者から聞くこともあります。
また、ほとんどの女性は月経が終了する閉経の前後5年ずつ、合計で10年もの間、それまでとは異なる体調の変調を感じる更年期症状を経験します。それが日常生活に支障を生じるほどであれば更年期障害と診断を受け、治療を要することとなります。
折しも女性の活躍促進をうたう「女性版骨太の方針2023:女性活躍・男女共同参画の重点方針2023 」が内閣府男女共同参画局より6月13日に公表されました。東証プライム市場上場企業を対象とした女性役員比率に係る数値目標の設定等として、2025年をめどに女性役員を1人以上選任するよう努めることと、2030年までに女性役員の比率を30%以上とすることが掲げられています。ところが、東証プライム市場上場企業の時価総額上位500社における女性取締役の人数は34歳から84歳までの計585人にとどまるうえ、年齢構成は40代前半が19人(3.2%)、40代後半が57人(9.7%)、50代前半が81人(13.8%)、50代後半が129人(22.0%)と40~50代で48.7%に達し、女性役員の2人にひとりは更年期症状、更年期障害で困っている可能性があるのです。(引用:日経BP 日経xwoman 『女性取締役の実像 平均59歳、22年昇格組は19人』2022年8月29日掲載)
女性のライフイベントに応じた支援策
一方で、働く女性に限らず、子供がほしいと考える女性の悩みや負担も看過できません。いわゆる妊活を始めたことを職場に告げたところ、重要な仕事から外されるような女性活躍には程遠い取り扱いを受けてしまうケースもあります。また不妊治療をパートナーと取り組みながらも、そのことを職場に言えず、苦しい思いをする方もいます。
望むように妊娠したとしても、20代でも流産の可能性は10%強あります。35歳以上になると25%近く、40歳以上では50%を超える確率になるとも言われています。そうすると妊娠したらとても喜ばしい一方で、流産してしまった場合を考えて、職場はもちろん、親族にも報告できないという苦しい時期を過ごすこともあります。
これらのケースで女性が職場でフルにパフォーマンスを発揮するのは難しい可能性がありますが、十分な支援を受けられない方が多数に及ぶのではないでしょうか。
労働基準法には、使用者に対して、妊婦の軽易業務転換(法第65条第3項)、妊産婦に対する変形労働時間制の適用制限(法第66条第1項)、妊産婦の時間外労働、休日労働、深夜業の制限(法第66条第2項、第3項)、育児時間(法第67条)に関する対応が定められています。ところが、これらはいずれも妊婦の方の請求に基づく対応となっており、請求をしない、あるいはできない限りはこれらの措置や配慮を受けることができません。
また、妊娠中あるいは出産後1年を経過しない女性の方から、主治医等による保健指導又は健康診査の指示等があれば、事業主として対応しなければならないのですが、上司や同僚の人たちがどのような反応なのか、思いやってくれるのか、あるいは冷たく扱われるのかという違いは、その後のパフォーマンスに影響すると考えられます。
出産して以降は、授乳に始まりおむつ替え等、当初はお子さんから目が離せない状態になり、心身の不調に見舞われる可能性もあります。相前後してパートナーとの不仲に直面することもあり、さらにお子さんが思春期を迎え、いわゆる難しい年ごろになって以降、受験やいじめに悩むこともしばしばです。中にはお子さんが引きこもりの状態になってしまう一方、ご自身は仕事に追われて、苦しい思いをする方もいます。
以上の課題、問題に対して本来は男女平等であるべきですが、いまだに家事は女性任せのケースが多く、義理の関係でも親の介護は女性が担うことになるケースが多くあります。先程のプライム市場の女性役員となられる方々は、親の介護に直面しやすい年齢でもあるのです。
人的資本経営に基づくパラダイムシフトを
以上の課題を自職場の問題とはせずに個人に任せたまま黙認し続けるのか、人的資本経営、健康経営で取り組む課題として、法令以上の対応をするのか、という意思決定が求められます。それはあくまで経営判断ですが、これまで健康管理は、業務に起因する職業性疾病、過労死、過労自殺等の作業が発症や悪化に影響する可能性のある作業関連疾病に限定されていました。その他、企業等の職場ごとにうつ病等のメンタルヘルス不調やがんなどの重い病気に対する支援があくまでも任意で行われてきました。
しかし、今回触れた内容は高年齢化に伴いより幅広く起きる可能性のある、私傷病(業務上の傷病ではない病気やけが)と個人的な問題に対する対応を行うのか、という課題を突き付けています。それに踏み出さない限り、優秀な女性の定着や女性の方々の安定した活躍と貢献はいずれしりすぼみになることでしょう。
経済産業省は基本的な対策として、男女を問わず研修を行い、リテラシーの向上を目指すこと、女性やその上司が相談できる窓口の設置、健康状態に合わせた柔軟な働き方ができる働きやすい環境の整備を推奨しています。(引用:「健康経営における女性の健康の取り組みについて」経済産業省ヘルスケア産業課 2019年3月)
女性活躍が本格化する今だからこそ、各職場でこれらの施策の状況を点検し、必要な対応を求めていくのがよいのではないでしょうか。
労働衛生コンサルタント、日本内科学会認定内科医、日本医師会認定産業医
1991年産業医科大学医学部卒。職場のメンタルヘルス対策、高年齢労働に伴う安全衛生・健康管理及び感染症を含む危機管理対策を専門とし、企業や自治体、人事担当者や専門家向けにコンサルティングと教育・啓発を手掛ける。福岡産業保健総合支援センター産業保健相談員、国際EAP協会日本支部理事、日本産業衛生学会エイジマネジメント研究会世話人を務める。社会保険労務士がメンタルヘルス対策等を学ぶ「健康企業推進研究会」を主宰する。
著書は『管理職ガイド〜はじめてでも分かる若手のトリセツ(令和のZ世代を受け入れ、育て、問題に対処するポイント)』(労働開発研究会)、『第2版 管理職のためのメンタルヘルス・マネジメント』(労務行政)、『改訂版 人事担当者のためのメンタルヘルス復職支援』(同)、『【図解】新型コロナウイルス メンタルヘルス対策』(エクスナレッジ)、『課題ごとに解決!健康経営マニュアル』(日本法令)、『社労士がすぐに使える!メンタルヘルス実務対応の知識とスキル』(同)等。