「企業の寿命は30年」とよく言われる。ならばグローバル企業(組織)の寿命は40年かもしれない――。かつて日本海軍の「連合艦隊」は日露戦争における日本海海戦(対馬沖海戦、1905年)で完勝し、世界のビッグ3に一気に躍り出た。しかし40年後の太平洋戦争で破れ45年に終幕を迎えた。「聯合艦隊」(中公選書)の著者である木村聡・別府大専任講師は「名トップ(司令長官)を輩出しても変革しない組織は生き残れない」と指摘する。1990年代生まれの研究者のクールな分析を聞いた。
完勝したことで一種の伝説に
――連合艦隊の誕生は日清戦争で、当初は存在根拠でさえ定かではない、極東の一海軍組織に過ぎませんでした。
「非常事態に備えた、臨時の特設組織でした。普段バラバラな地域に散っていた有力な戦力を結集するスペシャル・チーム的存在で、東京の海軍軍令部などの中央組織も相応に融通を利かせて、好きにやらせていました。戦闘に勝利することが、全体の目標である国家の勝利と国防の達成でもあったからです」
――日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を連合艦隊は壊滅させ、英米海軍に次ぐグローバルな存在に飛躍しました。
「この海戦は事前の作戦通りだったわけではなく、ロシア側のミスを的確に突いて勝利したといえます。ただ、完勝したことで一種の伝説となり、海軍全体が従うべき一種の理想や規範にまで昇格しました。国際的な軍縮などの環境変化の前後をつなぐ精神的な支柱のひとつになりました」
「日露戦争と戦間期、太平洋戦争期には全く連合艦隊の活動する状況が変化していました。勝利の条件や求められる組織の役割・任務も異なるものだったのです。光学・造船技術の進化で、船の性能や大きさのみならず水上艦船ではない潜水艦、水上艦船では防ぐのが難しい航空機による偵察や襲撃も登場しました。戦争そのもののあり方を見ても、第1次世界大戦のユトランド沖海戦(1916年、英独海軍の戦い)のような大規模な艦隊決戦でも勝敗はつかず、国家の総合力が試される総力戦が主流となりました」
――第1次大戦後、日本陸軍は中堅・少壮将校らが戦争に勝つための「国家総動員体制」構築に走り出しましたが、海の世界でも同じだったのですね。
「海軍に求められる役割は(1)相手が屈服するまで戦争を継続させるために安全に物資・人員の輸出入を護衛すること(2)陸軍と協力して必要に応じて必要な場所に戦力を派遣し、戦略目標を達成すること(3)相手の輸送を妨害して、総力戦を戦わせなくすること――の3つに変化しました。連合艦隊が最重要任務としていた、大規模な艦隊決戦における勝利それ自体は、複数ある手段のひとつにまで、重要性が低下していたのです。こうした目的を達成するのに効果的な方法は、上陸支援や護衛などの、目的に応じた小規模艦隊を編成して派遣すること、場合によっては単艦でゲリラ的に攻撃をしかけるか、情報を精査した上で相手の通商航路上に潜水艦を配置して襲わせることです。こうした地味な戦いが中心になりました」
独り相撲を演武のように続けてきた
――技術から人員、地理、国際関係、求められる役割など連合艦隊を取り巻く環境が一変したのですね。
「それまでの活動範囲は日本近海か中国沿岸までだったのが、仮想敵が米国に変化したこともあって、太平洋で離島の散らばる南洋方面や、東正面からの相手に対し離島を起点に縦横に移動することが求められるようになりました。仮想敵国の米国は1度の艦隊決戦で決着のつく相手ではありません。しかし、連合艦隊はかつての日露戦争時に最適化された方法に固執しました。太平洋戦争では自分を相対化せず、巨視的な視点で相手をみない独り相撲を演武のように続けてきた印象があります」
――歴代の連合艦隊司令長官は3人の首相のほか、国際的にも日本海海戦の東郷平八郎(元帥、1848〜1934)、ハワイ奇襲攻撃の山本五十六(同、1884〜1943)と国際的にも名アドミラル(提督)と評価の高いトップを輩出してきました。
「東郷は常に相手より劣勢の兵力量で戦わざるを得なかった時代の提督です。対馬沖の戦果は幸運もあって勝てたのだと正確に認識していました。しかし、東郷は過酷な訓練による練度の向上と天佑(てんゆう)を信じて待つということを強調するようになりました。こうした精兵主義は、時には訓練中の事故を引き起こすことにもつながりました」
艦隊決戦の思想から脱却しきれなかった山本元帥
――山本元帥は最新技術の動向にアンテナを張り、いち早く航空機主体の海戦を予想していたといいます。
「対米戦は局地戦の連続になるという部下の小沢治三郎中将らの主張を取り入れ、山本は連合艦隊司令部の編成を抜本的に改変しました。しかし、開戦直前の1940年になってからでした。大急ぎの対応だったため組織自体が長期戦や補給や護衛に向かないままで、山本自身も最終的には昔からの艦隊決戦の思想から脱却しきれませんでした」
――当時の航空機の飛躍的進歩など破壊的なイノベーションに直面した組織は、技術革新や組織改革だけでなく、経営・運営思想の刷新まで踏み込まないといけないのですね。著書では連合艦隊を「海の関東軍(中国東北部に常駐していた陸軍師団)」と評しています。
「組織上はどちらも出先機関です。しかし単なる出先にしては独自性が強く、関東軍は陸軍省や参謀本部の意向を無視して満州事変(1931年)を起こしました。連合艦隊はさらに強力で、海軍戦力のほとんどを組み込んだ最大の実力組織でした。中央機関であるはずの軍令部は連合艦隊を制御できず、『連合艦隊東京出張所』と揶揄(やゆ)されるほどでした」
「太平洋戦争中にしばしば見られた、陸海軍の作戦指導の分裂の原因が連合艦隊にあると陸軍のみならず身内の海軍からも思われ、恨みを買うことが少なくありませんでした。東京の陸海軍の中央部が作成した作戦協定を、連合艦隊にどこまで守らせるべきか、という課題を抱えたまま戦争を遂行していかざるを得ませんでした」
形式主義に陥り有効な対策を実行できず
――関東軍ではノモンハン事件(1939年)の敗北後に司令部を一掃し、統制力の強さで知られる梅津美治郎・新関東軍司令官(2.26事件後の粛正人事を担当)は、その後は完全に中央の指示に従わせました。海軍でもミッドウェー海戦(42年)敗北の後にそうしたチャンスはなかったのでしょうか。
「当時の山本司令長官を解任すると、年次と席次を重視する海軍人事の伝統から、ほとんど全ての艦隊長官らを取り換えるしかありません。戦時中に連合艦隊司令長官が更迭された事例もありませんし、なにより最初期に膨大な戦果を挙げた山本をどこに配するのか、という問題も生じます。事実上不可能で、代わる人材も充当しきれなかったでしょう。実際、43年の山本戦死後の後継長官らは陸軍との相互不信を悪化させたり、形式主義に陥ったりして有効な対策を実行できませんでした」
「聯合艦隊の歴代長官は、自分の職分を守り期待されている仕事をやり遂げるという点では、みな優秀な人材でした。一方で組織に課せられた任務や組織全体のあり方を、相対化して疑ってみないと破滅につながることがあるという教訓も残したと言えます」
(聞き手は松本治人)