BizGateリポート/Biz

王道かメタ戦法か 藤井「8冠」かけたAI将棋の進歩 谷合廣紀・プロ棋士四段

AI イノベーション Z世代

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

将棋の藤井聡太七冠が全8タイトル制覇を目指して挑戦する第71期将棋王座戦五番が2023年8月31日から始まる。対する永瀬拓矢王座も防衛を続けており、藤井七冠を破れば連続5期で得られる永世称号「名誉王座」がかかっている大勝負だ。カギを握るのは人工知能(AI)の成果をどこまで実戦で活用できるか。東大大学院時代にプロ棋士としてデビューし、現在も公式対局のかたわら将棋AIなどを研究している谷合廣紀四段に寄稿してもらった。

近年の人工知能(AI)の進化は目覚ましい。23年は対話型AIの「Chat(チャット)GPT」に代表される生成AIモデルが性能を大きく向上し、一部の職業が失われることが懸念され始めているほどだ。しかし、そのような職が脅かされる危機感を、将棋界は6年も前に経験している。それは将棋界における頂点である当時の佐藤天彦名人が将棋AIの「Ponanza」に敗れた瞬間だ。ついに将棋AIが人間を超えるというXデーを迎え、棋士という職業が失われてしまうのではないかという不安が将棋界全体を襲った。だが、その後に将棋界を待ち受けていたのは人間とAIの共存という世界だった。

AIで消えなかった「棋士」という職業

棋士という職業が失われずに済んだ理由として、将棋ファンが人間同士の戦いに惹(ひ)かれているからという点が大きい。棋士たちの命を削るような情熱を持って戦う姿は、単なる計算では得られない魅力があるのだ。

棋士という職業が脅かされなかっただけでなく、将棋AIは将棋界に大きく2つの恩恵をもたらした。ひとつは将棋のエンターテインメントとしての在り方、もうひとつが将棋の勉強法だ。

将棋界はファンがあってこそ成り立っている。それゆえに棋士の対局をどのように将棋ファンへ伝えるかというエンタメとしての在り方は重要だ。もともと将棋ファンは棋士の棋譜を、新聞紙面を通してしか見られなかったが、情報化社会が進むにつれてスマートフォンのアプリや、ネットTVにおける中継などの配信環境が整っていった。現在では、タイトル戦をはじめとした多くの対局をリアルタイムで追える。このような配信環境の整備は将棋をエンタメとして大きく昇華させた。

しかし、それだけでは将棋をある程度たしなんでいる人にしか伝わらない。どれだけ熱戦が行われていても、戦況がわからなければルールしか知らないような初心者にとってはつまらないコンテンツだからだ。棋士が逐一状況を解説できればいいが、すべての中継で行うとなると難しい。そこで良いスパイスとなったのが将棋AIである。

ここで簡単に将棋AIがどういったものか説明したい。将棋AIは局面を入力すると、その局面で推奨する手と「評価値」と呼ばれる期待勝率が出力される。評価値はいわばスコアボードであり、棋士が感覚的に「優勢」や「劣勢」と言っている局面の優劣を定量的に表せる指標だ。このような将棋AIによる評価が配信に加わることで、初心者であってもどちらが優勢かということが一目でわかるようになった。将棋AIによって将棋を楽しむ人たちの裾野が広がったのだ。

将棋AIが与えたもうひとつの大きな影響は、将棋の研究、すなわち勉強の方法だ。これまでは結論を出したい重要な局面を前にしたら、棋士たちは納得できる結論が得られるまでうんうんと考えるしかなかった。しかし、今やそういった結論を得たい局面は、将棋AIにかければ「正解」を即座に得られる。何時間もかけて行われていた作業が数秒で済むようになった。これによって棋士の研究は加速し、それまで見向きもされてこなかったような作戦や手筋がどんどん掘り起こされていった。将棋AIは間違いなく将棋界全体のレベルを底上げし、人類の将棋への理解度は何段階も向上した。

ここまで将棋AIの進化が進むと、将棋に結論が出る日が近いのではないかと思われる方もいるかもしれない。実際、盤面が3×4とコンパクトで初心者に人気の「どうぶつしょうぎ」はコンピューターによって解が発見されており、後手必勝という結論が出ている。将棋でも理論的には解を求めることはできるはずだが、局面が広くなるにつれてその通り数は指数的に増えていくため、現実的には難しい。将棋で探索しなければならない局面の通り数はおおよそ10の220乗と言われており、これは宇宙にある原子すべてに局面をひとつずつ割り振っても間に合わないほどの膨大な数だ。つまり将棋の解は少なくとも現在の技術の延長線上では求められないのだ。

必勝法に近い定跡は確立できる?

しかし、将棋の結論めいたものは、もしかしたらそう遠くないうちに出るかもしれない。というのも現在の将棋AIは詰みであれば30手以上もの長手数の詰みであろうと逃すことはまずないし、それどころか詰みの何段階も前の「優勢」と言われるような局面から逆転を許すこともめったにない。そう考えると探索すべき局面数は10の220乗よりはずっと小さく、ある程度の誤差を許容できるなら必勝法に近い定跡は確立できるかもしれない。

実際、将棋AI同士の対局で頻出する「角換わり腰掛け銀」と呼ばれる戦法は、かなりの精度で探索が進められて、先手番が有利ということが明らかになりつつある。それどころか一部の将棋AI開発者の間では、角換わり腰掛け銀は先手必勝とまで言われている。これまで互角だと思われていたひとつの戦法に結論が出ようとしているのならば、将棋AIは将棋の結論に近づき始めていると言えそうだ。

とはいえ将棋AIによって必勝定跡が構築できたところで将棋の面白さは失われないだろう。そのような定跡が生まれたところで記憶すべき局面は人間の記憶の限界を超えているだろうし、暗記勝負を乗り越えてその定跡の末端にまで無事たどり着けたところで、そこで見られる世界は将棋AIにとっての必勝の局面。そこから人間が全くミスをせずにリードを保ちきるのは相当に大変なことだ。

将棋AIが最善と示す手だけを序盤で指し続けることは、実は棋士にとってリスクもある。というのも同じ将棋AIを使っていれば、対戦相手もその手順を想定することは容易であり、より深い研究を準備して対局に挑まれてしまうかもしれないからだ。対局相手に準備段階で上回られてしまうと、それだけで一定のディスアドバンテージを負うことになってしまう。

そういったリスクを和らげるために、棋士はある程度作戦のレパートリーを持っていたり、相手が得意とする展開にならないように戦法を変えたりすることも少なくない。最近では将棋AIの最善手をあえて外した手を選ぶ序盤戦術もよく見られる。これはわずかながらの不利を受け入れながらも、相手があまり経験したことのない局面に持ち込む作戦だ。その先を深く研究していれば、自分だけ経験値の高い、いわば自分の土俵での戦いにできるのだ。将棋AIによる研究が進むにつれ、そういった高次元のメタな戦い方も徐々に取り入れられるようになっている。

リスクの多い「王道」で戦う藤井七冠

現在の将棋界において一番の注目イベントは、藤井聡太七冠が残るタイトルである王座を取り、棋界の8タイトルすべてを制覇するかどうかだろう。そんな藤井七冠の序盤は、相手によって戦い方を変えることをせず、自身が正解だと信じている手順を指し続ける戦い方だ。前述したようにこのような戦い方は相手に研究を容易にさせるためリスクも多いのだが、どれだけ入念に準備して挑んだところで藤井七冠はそれらをはねのける強さを持っている。まさしく王者の戦い方だ。

藤井七冠を王座戦で待ち受けているのは永瀬拓矢王座だ。永瀬王座は藤井七冠の研究パートナーとしても知られ、藤井七冠の将棋を最もよく理解している棋士の一人と言っても過言ではない。

永瀬王座の序盤は藤井七冠に比べると戦型にバリエーションがあり、序盤から一工夫を見せることも少なくない。そのため王座戦の序盤戦は、藤井七冠の王道スタイルに対して、永瀬王座が定跡勝負で挑むか、はたまた少し変化を加えて自分の土俵に持ち込む「メタ戦法」かというところに注目が集まる。序盤戦を抜けた先にある中終盤で、人間のトップレベルのせめぎ合いがどのように繰り広げられるかも楽しみだ。

AIの風に吹かれて戦術が多様化し、競争が激化している将棋界で、八冠制覇という前代未聞の偉業を成し遂げるのか。今期の王座戦は将棋界の歴史の中でも特に注目の番勝負となることは間違いないだろう。

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

AI イノベーション Z世代

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。