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ウクライナ侵攻、遠因は四半世紀前の独自通貨導入にあり 元経済改革管理委員会メンバー エコノミストの西谷公明氏に聞く

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ロシアのウクライナ侵攻から 1 年、戦争は長期化が必至の情勢だ。1991 年の旧ソ連崩壊後、国民投票で 90%以上の賛成を得て独立したウクライナとロシアとの確執の歴史は長い。「ウクライナ 通貨誕生」(岩波現代文庫)の著者であるエコノミストの西谷公明氏は「ウクライナがルーブルに代わる独自通貨(フリブナ)の導入を決めた時点から、今日の最悪の戦争へとつづく因果がすでにはじまっていた」と指摘する。

国民経済を立て直すための中銀、通貨、財政、貿易……

――独立後の 92 年にウクライナへ渡り、最高会議経済改革管理委員会の客員として、社会主義計画経済から自由主義市場経済へ移行する過程でさまざまに助言しました。

「当時は長銀総合研究所に在籍して旧ソ連地域のマクロ経済調査を担当していました。91 年8月のゴルバチョフ大統領へのクーデター事件後から何度もロシア、ウクライナへ足を運んだ縁から、まず 92 年から6カ月間、最高会議の経済改革管理委員会で国づくりの現場を調査し、96年からキーウの在ウクライナ日本大使館で専門調査員として3年間勤務しました」

――96 年のウクライナ通貨「フリブナ」導入までのプロセスを現地で体験しましたね。社会主義経済から自由主義経済への移行でさまざまな困難があったことを著書でも記しています。

「ウクライナの『国民経済』をゼロから立ち上げる作業に現場で立ち会いました。中央銀行と銀行制度の整備、通貨発行と管理、財政の確立、税金・関税・貿易制度の確立などです。それまでウクライナはロシアの下請け的な存在で、ソ連型指令経済の枠組みにしっかりはめ込まれていました」

「モノとモノのバランスが重視されて、経済を回すための血液となる通貨政策、金融政策が効きにくい側面もありました。地方ではバーター交易(物々交換)も盛んでした。さらに対外窓口はそれまでモスクワが一手に引き受けていたため、ウクライナには直接外国人と交渉した経験がほとんどありませんでした。深刻な人材不足を抱えたままのスタートでした。対外的なルールやマナーまでもアドバイスしました」

「一方で国土面積は約 60 万平方キロメートルとフランスよりも広大で、人口は当時約 5200 万人とドイツ、フランスに次いで欧州でも上位でした。肥沃な黒土地帯は『欧州の穀倉』と呼ばれ、小麦やトウモロコシなど農業も盛んです。鉄鋼・機械工業が発達しており、軍需産業の層も厚いものがありました。この国の将来は大きな可能性を秘めていると期待しました」

「ルーブル通貨圏」構想を無効化した独自通貨

――しかしロシアとの関係は当初からギクシャクしていました。その端緒が独立直後の 91 年、ウクライナがルーブルに代わる新通貨導入の方針をはっきりと表明したことだったといいます。

「ロシアには『ルーブル通貨圏』を維持したいという考えがありました。ルーブル発行権を一手に握ることで旧ソ連地域を束ね、金融・財政政策を一元的にコントロールする狙いです。ゴルバチョフ元大統領とロシアのエリツィン元大統領との間でも『ウクライナ抜きは考えられない』との会話があったといいます」

「しかしウクライナにとって、独自通貨は悲願の独立と不可分でした。ロシア帝国時代から長く従属せざるを得ず、ソ連崩壊末期にはソ連の軍事費のためにウクライナの市民が高い税金を負担させられているとの被害者意識も広く共有されていました。さらにマネタリズムを核とした急激な経済改革を選択したソ連経済はハイパーインフレに直面し、ウクライナにとってルーブル通貨圏に止まる理由がありませんでした」

「ロシアはそれまで割安だった石油の価格を10 倍以上の国際基準で供給すると通告しました。さらにロシアが行った厳しい金融引き締めのため、ウクライナにロシア企業との貿易決済に用いるルーブルが入らなくなりました。フリブナ導入以前の対策としてクーポン券(カルボーヴァネツィ)を発行しましたが信認が低く、ウクライナも激しいインフレに見舞われました。クーポン券は偽造の恐れもありました。しかしインフレの進行が早過ぎて、手間暇かけて印刷するのが割に合わなかったのでしょう。偽クーポン券はそれほど問題にはならなかったという笑えぬ事態もありました」

日本の経済復興に関心示したエコノミストたち

――経済改革管理委員会にはどんなアドバイスをしましたか。

「委員会のメンバーは 20〜40 代前半までの若いエコノミストが中心で、皆ロシアの軛(くびき)から脱したいと考えるナショナリスト(国家主義者)ばかりでした。第2次世界大戦後の日本の経済復興について関心が高く、日本から資料を取り寄せたりしました。特に経済発展の初期段階では、為替制度の確立と外資の集中管理が欠かせないことを強調しました」

「日本から新通貨のための印刷機器システムとニセ札防止のノウハウを導入できないかと打診されたこともありました。しかしニセ札対策はどこの国でも最高レベルの国家機密ですから、断らざるを得ません。当初フリブナはカナダで印刷される計画でした。カナダや米国にはウクライナからの移民が多く、結束の固い同地の『ウクライナコミュニティー』が支援したといわれています」

――半年間の滞在中にウクライナ全土を視察しましたね。

「国内全 24 州とクリミア自治共和国をすべて見て回りました。痛感したのはこの国の多様性です。東部のドンバス地方はロシアの産業資本家と固く結びついていました。西部のガリツィア地方はヨーロッパそのものでした。ザカルパチア(カルパチア山脈の向こう側の意)地方では、ハンガリーとの国境が見分けられないほど山の斜面にブドウ畑が延々と続いています。南部のオデッサは黒海に面した国際貿易港で、その先は地中海経済につながっています。資本投下が首都キーウに集中するのではなく、地方拠点ごとに蓄積されていけば、開発独裁型のアジア諸国の経済発展とは異なる、新しいタイプの分権型の経済発展が可能ではないかと考えました」

ウクライナの安定はウクライナの人々で

――独立から約30年たちましたが、新しい資本主義のモデルは実現していません。

「立地や経済面での多様性に対し、親欧州・反ロシアの西ウクライナと親ロシアの東ウクライナやクリミアの間で同一の政治意識や国家としての方向性を形成できず、脆弱な政治体制のまま推移したためだといえます。ウクライナの内情は複雑です。ロシアから輸入した石油代金の代わりに黒海艦隊の所有権を分け合うといった、両国間には我々から見ればある種の政治的な甘え、なれ合いのような不透明な関係も存在しました」

――皮肉にも今回の戦争でウクライナ国民としてのアイデンティティーが確立されるかもしれません。将来のウクライナ経済の立て直しについてはどう考えますか。

「ウクライナの人々は、冷戦終結後の東西のはざまという地政学的な脆(もろ)さのなかで、独立から30 年後の最も不幸な今に辿(たど)り着いてしまったように思います。いまやロシアに奪われた領土を取り返すための戦いだけが、長くまとまることのなかった国民の心を束ねるかすがいと化したのは、歴史の皮肉と言わざるを得ません。22年のウクライナの国内総生産(GDP)は前年比マイナス30%と発表されていますが、実際のところは半ば破綻しているはずです。経済の屋台骨を成す東部や南部の産業地帯の多くはすでに焦土と化しているからです。西側諸国もウクライナの経済を永遠に支え続けていけるわけではありません」

「いかなる戦争にも、いつか終わりは来ます。そのとき、ウクライナ国民がいかに自分たちの国の政治を安定させ、経済を復興させることができるか。私は結果的には、ウクライナの安定はウクライナの人々にしかできないと考えています。彼らの真の強さが試されるのは、むしろそれからではないかと思っています。この悲惨な戦争が一刻も早く終わることを願ってやみません」

(聞き手は松本治人)

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