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国鉄の慢性赤字、分割民営化 荒波を受けた鉄道界 鉄道開通150年(下)

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「鉄道は国家なり」からモータリゼーションへ――。1964年(昭和39年)に国鉄の経営は赤字に転落し、以後膨らむ一方の巨大債務は日本全体を巻き込む社会問題となった。87年にJRグループへ移行した分割民営化を「一種の革命だった」とする指摘もある。激動の時代にかじ取りを任された鉄道人らの足跡を振り返った(文中敬称略。旧鉄道省、同国有鉄道、JR関係者を中心に取り上げた)。

(6)鉄道人(佐藤栄作・1901~75年)

「鉄道と国家」の著者、小牟田哲彦は佐藤栄作(元首相、ノーベル平和賞)を井上勝・後藤新平とならぶ「日本の鉄道を創った政治家」と高く評価する。当初、日本郵船に入社するつもりだった佐藤は大学卒業後の24年に鉄道省を選び「鉄道人」のキャリアをスタートさせた。

佐藤は、当初から十河信二らの新幹線計画に賛成していたという。岸信介内閣の大蔵大臣(現・財務相)時に、佐藤は世界銀行からの借款を国鉄にアドバイスした。当該国の政府がその事業援助を保障するという借款契約の内容がポイントだった。金額(8000万ドル)自体よりも、内閣が交代しても日本政府に新幹線計画の継続を義務付けさせる政治的な意味が大きかったのだ。小牟田は「世銀を巻き込んで新幹線を国内政争から切り離した佐藤の発想こそ、新幹線の実現に最も不可欠だった」と結論している。

佐藤は首相時代の70年にも鉄道人らしい冴(さ)えを見せたという。自民党内の調整も済み、国会提出直前の「全国新幹線鉄道整備法」に、付随していた図表の削除をいきなり指示した。法律に路線や区間を書くと、後の政府が縛られてしまうからという理由だった。小牟田は「佐藤が鉄道省時代に政治的な『我田引鉄』の動きを肌で知っていたための判断だろう」とみる。

(7)日本列島改造論(田中角栄・191893年)

東海道新幹線の建設資金不足を解決したのが池田勇人内閣の蔵相・田中角栄(元首相)。田中は佐藤派のナンバー2だっただけではなく、広軌新幹線が高度成長のけん引車となることを見抜いていたとされる。「日本列島改造論」では、9000キロにも及ぶ全国への新幹線網構想とともに、赤字ローカル線肯定論も強調されている。鉄道自体の赤字よりも、地域産業が衰退する損失の方が大きいとするものだ。田中が主導した日本鉄道建設公団(鉄建公団)による新線建設は、多くが計画段階から黒字が見込めず、国鉄の経営を圧迫する原因のひとつになった。赤字ローカル線の問題は、今春JR西日本などが経営データを公表して注目を集めている。

(8)最初で最後の民間出身総裁(石田助・1886~1978年)

城山三郎の小説「粗にして野だが卑ではない」(文春文庫)の主人公。三井物産社長の後に、77歳から第5代総裁(任期・63~69年)を務めた。総裁報酬の返上宣言や「持たせ切り」の禁止などで知られる。JR九州の初代社長・石井幸孝は「歴代総裁の中でビジネス・経営センスが飛び抜けていた。しかし、これを支える幹部が国鉄には不在だった」と振り返る。官僚的風土の色濃い国鉄では、組織運営・管理に長じた幹部は育ってもビジネス感覚に優れたリーダーは生まれにくいという。

64年から国鉄は慢性赤字に転落。衰退する主力に代わって成長の見込める新規事業を開拓すべき時期が来ていた。しかし「石田は当時の国鉄マンや政界、経済界に対し意欲的な経営戦略を考えるべきだというシグナルを、総裁就任前の監査委員長時代から諮問委員会意見書などで送っていたが、その警鐘を生かす土壌がなかった」と石井は指摘する。この時期に組織文化が変わっていれば87年の国鉄解体とは違った将来があり得たかもしれない。石田の退任後、国鉄労使は先鋭的な対立路線と癒着的な協調路線を繰り返し、職場規律の乱れと度重なるストライキが巨大組織をむしばんだ。国鉄の債務はますます膨らんでいった。

(9)未完の国鉄改革(葛西敬之・1940~2022年)

1987年に分割民営化された時点で国鉄の債務は約37兆円。さらに戦後日本の労働運動における中心的な存在だった国鉄労働組合(国労)は分裂した。一方、最も戦闘的とされた国鉄動力車労働組合(動労)は、委員長だった松崎明の「コペルニクス的転回」で分割民営化の賛成に回り存続した。動労は穏健的な鉄道労働組合(鉄労)などと全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)を結成。ただ今度はJR総連自体が激しい内部対立と分裂を繰り返した。現在でもJRグループの経営陣にとって、労働組合への対応は最も重要な経営課題のひとつだ。

JR東日本の松田昌士(後に社長)やJR西日本の井手正敬(同)とあわせ「国鉄改革3人組」と称されたのがJR東海の葛西敬之(同)。中堅・若手でも巨大組織を全面的に刷新できることを示した。3人の中で最年少の葛西が、最後まで取り組んだのがリニア中央新幹線だ。しかしJR東海は当初、品川―名古屋間で2027年開業を目指したが、静岡県による静岡工区着工の反対を受け遅れが避けられない情勢となっている。

分割民営化の経緯やその後の動向に関しては、葛西自身の著書「未完の『国鉄改革』」(東洋経済新報社)や「飛躍への挑戦」(ワック)のほか「昭和解体」(牧久著、講談社)「暴君」(同、小学館)に詳しい。労働資料館(東京・品川)には「松崎明資料コーナー」が常設されている。

(10)ななつ星in九州(唐池恒二・1953年~)

2016年、JR九州の上場はサプライズだった。JR北海道・四国と共に経営基盤が弱いとされていたJR九州の躍進のキーワードは「脱鉄道」。不動産、ホテル、建設、流通・外食などの多角化戦略が成功した。同社は初代社長・石井幸孝の時期から大手私鉄のあり方などを研究していたという。新たな経営戦略をさらに加速させたのが、09年から社長・会長としてリーダーシップを発揮した唐池恒二だ。唐池自身も、それまでは日韓間の高速船運航やフード子会社の黒字化などを手掛け、本業である鉄道に対し傍流の立ち位置にあった。唐池は自著「感動経営」(ダイヤモンド社)で「異端を尊び挑戦をたたえる風土をつくる」と強調する。中期計画の文言にも取り入れたという。

アジアや国内の富裕層をターゲットにして13年から始まった豪華寝台列車「ななつ星in九州」は米国などでも知られるようになり、JR九州のブランド価値を大きく高めた。旅行料金が100万円を超えるコースも少なくないが、数年前まで申し込み倍率は20倍以上あった(現在は非公表)。初のリニューアルでより華麗に衣替えした客車は10月15日からお客を乗せて運行開始する。

新型コロナウイルスの感染流行で鉄道各社は大きなダメージを受け、現在も回復しきれていない。さらに鉄道は公的なインフラでもある。経済安全保障の視点から、外資系からの買収への対抗策も重要になってくる。分割民営化から35年、JR各社は新たなビジネスモデルを模索する時代が始まっている。

(次点)清張ミステリー(松本清張・1909~92年)

近代文学と鉄道は切り離せない。夏目漱石の「坊っちゃん」も、最後は市電の技術者になった。鉄道は近代化の象徴だったわけだ。その中で鉄道をより身近な存在にしてくれたのが、多くの作品に駅や路線、車窓からの風景を登場させた松本清張だ。名作「砂の器」の亀嵩(かめだけ)駅の名前を、記憶の奥底にとどめている読者の方は少なくないだろう。

代表作の「点と線」(1957~58年連載)で、清張は時刻表を事実上の主人公とした。JR東京駅の13番線から15番線のホームを偶然見渡せる4分間を利用した完全犯罪だ。「清張鉄道1万3500キロ」 (文春文庫)の著者、赤塚隆二は清張が時刻表と地図を机のそばに置き、空想して作品に芯を通し、リアリティーを吹き込もうとしたのではないかと推測する。

現在は乗り換え時間などがネットですぐ分かる。しかし「時刻表ファン」は今日でも健在だ。将棋の谷川浩司(17世名人、1962年~)は自著「藤井聡太論」(講談社+α新書)の中で、自分と五冠・藤井聡太(2002年~)が共に熱心な時刻表ファンだと記す。プロ将棋と似た味わいがあるらしい。

(松本治人)

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