慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の「関ケ原の戦い」における新説が相次いでいる。東軍(約8万)の徳川家康が、石田三成らの西軍(約7万)を関ケ原(岐阜県関ケ原町)で破った日本史上最も有名な合戦のひとつ。しかし、「パンドラの箱」を開けたようにベテラン大学教授らの間でアカデミックな論争が続いている。現代のビジネス社会になぞらえれば、家康は絶対的なリーダーだった豊臣秀吉の下での代表取締役筆頭副社長、三成は常務・社長室長の立ち位置になる。「関ヶ原合戦を復元する」(星海社新書、9月21日発売)の著者である新世代の史学研究者、水野伍貴氏に2023年における最新研究を読み解いてもらった。
有名な合戦、ベテラン大学教授らが新説続々
関ケ原の戦いは、定説で(1)〜(5)のように展開したと説く。(1)秀吉死後(1598年)の政局で三成(五奉行)はアンチ家康(五大老筆頭)派のリーダーだった(2)上杉景勝(福島県、五大老のひとり)とともに家康を東西両方向から挟撃することを三成が立案(3)家康は三成の戦略を承知の上で誘いに応じて上杉討伐に出陣し、途上「小山(栃木県)評定」で東軍を編成(4)当日の戦いは一進一退。家康が西軍・日和見派の小早川秀秋(約1万5000)に鉄砲を撃ちかけて裏切りを催促(5)東軍勝利は家康を天下人に押し上げた――というものだ。しかし、水野氏は「歴史的に確実に言えるのは『関ケ原の戦いで家康が勝利した』ことだけだ」と指摘する。
まず(1)三成のみが反家康の意思が強かったわけではなく、三成が挙兵できたのは、ナンバー2の勢力をもつ毛利輝元が家康との闘争にやる気があった点が大きい(2)景勝の家老・直江兼続が家康を揶揄(やゆ)・挑発した「直江状」は後世の創作(3)三成の挙兵は家康の意図するところではなく、政権中枢のメンバーが全て敵になることを家康は望んでいなかった(4)この戦いで最も有名なエピソード「小早川への鉄砲射撃」は後世の創作が濃厚(5)戦後は豊臣政権内の権力抗争として事務処理された。家康が諸大名に所領を配分する権限を完全に掌握して「天下人」と評価できるのは、幕府を開く半年前の1602年9月ごろ――。
関ケ原論争は別府大学の白峰旬教授による従来の定説を覆す新解釈「関ヶ原合戦の真実」(2014年、宮帯出版社)がきっかけとなった。イエズス会の報告書など同時代の史料を駆使したのが特徴で、軍記物などに描かれたエピソードを創作だと指摘した視点が新しかったという。ただ22年に国際日本文化研究センターの笠谷和比古・名誉教授が「論争 関ヶ原合戦」(新潮社)で全面的に反論している。
水野氏は「白峰説によって研究が活発化し、新出史料の発見や活用が進んで研究環境が良くなってきている」と指摘する。特に小早川が布陣していた松尾山への一斉射撃を文献史学の面から白峰氏が否定し、史実として否定的な見解をとる研究者が圧倒的に増えたという。
幻の巨城?合戦に何も寄与せず
さらに最近では別の視点からの新説も出ている。ひとつは城郭考古学の千田嘉博・奈良大特別教授らが唱える「幻の巨城」だ。関ケ原古戦場から西方約2キロの山城(玉城)に注目し、大坂城にいた豊臣秀頼・毛利輝元らを迎え入れるために西軍が大幅改築していたというものだ。
しかし、水野氏は西軍が各地の大名にあてた西軍勧誘の書状には「秀頼出陣」に言及した文章がないと指摘する。中間派を取り込むのに最も魅力的な文言のはずだが「秀頼に今こそ忠誠を尽くすべきだ」との誘いしか存在しないという。「玉城の改修開始の時期もはっきりせず、何より実際の戦いに全く貢献できていない」と水野氏は否定的だ。
2番目は新しい解釈を提唱した当の白峰説の一部。午前10時に開戦すると同時に小早川秀秋が裏切り、瞬時に西軍は壊滅したというもの。水野氏は「関ケ原の戦いが短時間で終わったとは考えにくい」と話す。白峰氏が自説のために用いた史料は全く異なる読み方も可能だという。徳川方で4時間ほど戦ったとする史料も残っている。家康4男の松平忠吉や「徳川四天王」の井伊直政が負傷し、本多忠勝も自身の馬を失ったという。もし東軍大勝だったならば、辛勝の方がよりドラマチックであったとしても東軍側に言い換える動機は乏しそうだ。
「9月15日12時」に西軍が敗退か
では慶長5年9月15日に濃尾平野で何が起きていたか。水野氏に聞いた。
まず14日午後7〜8時ごろに三成ら西軍首脳が大垣城から関ケ原へ出発。「家康が江戸から現地に到着して東軍の戦力が増し、大垣城が東西から包囲される恐れがあった。家康が京都方面へ進撃するとの情報も流れていた」と水野氏。翌15日未明からは東軍も移動開始し、西軍に続く形になった。
西軍は15日午前6〜7時ごろに関ケ原の布陣を終えた。続いて東軍も陣形が完成。水野氏は「東軍は西軍を追いながら大人数で移動したため、ややバラバラの布陣となった」と話す。当日は朝霧が立ちこめてなかなか相手が見えない。午前8〜9時の間に未だ霧が晴れぬ中で開戦し、霧が晴れた午前10時ごろから総力を挙げた衝突になったと水野氏は推測する。
戦局は一進一退。午前10〜11時ごろに三成は島津豊久に戦闘参加を要請するが、島津は自軍優先とすげなく断った。通説では感情的なもつれとされているが、兵力に余裕が無かったためではないだろうかと水野氏は言う。午前11時、小早川が寝返り、約1時間で西軍は壊滅した。12時に家康が後方の本陣から戦場へ進出した。最後に残った島津軍が脱出したのが午後0時半〜1時ごろとみられるという。水野氏は「講談などでは午後まで激戦が続いたとしているが、実際は15日正午までに大勢が決した」と分析する。
家康と三成らは、それぞれ多数派工作を展開したが、働きかける層が全く異なっていたという。「三成らは五大老・五奉行という上層部に工作し、家康は当時不遇な待遇を受けていた加藤清正ら実力派の中堅層を味方に付けた」と水野氏。豊臣政権の体制をそのまま受け継ぐのではなく、当初から現状変更を意図していたという。予想以上に反対派が多く、家康の戦略はいったん破綻した。しかし、その後は現場の状況に臨機応変に対応したという。水野氏は「最後は自軍の半数を預けた徳川秀忠(2代将軍)の到着を待たずに決戦を挑み、勝利を手に入れた」と結論している。
(松本治人)