BizGateリポート/経営

日本の近現代史に足跡 「鉄道は国家なり」支えた人々 鉄道開通150年(上)

経営 歴史 交通

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

鉄道は国家なり――。近代化への必要条件として、1872年(明治5年)10月14日に鉄道が開通(新橋~横浜間)してから150年。経済発展、技術開発、政党政治、労働問題から社会・文化まで、日本近現代の歩みは鉄道と共にあった。150年史に残る10人のエピソードを通して振り返ってみた(文中敬称略。旧鉄道省、同国有鉄道、JR関係者を中心に取り上げた)。

(1)長州ファイブ(井上勝・1843~1910年)

米提督のペリーが日米和親条約のため来日し、徳川幕府に模型の蒸気機関車を献上したのは1854年(嘉永7年)。その後、福沢諭吉や渋沢栄一らは訪欧先で実際に蒸気機関車に乗車した。ただ、明治初めの約20年間、鉄道振興の中心を担ったのは「長州ファイブ」の井上勝だった。明治維新前に伊藤博文らとともに英ロンドンへ密航留学し、関西大学の柏原宏紀教授は「自らを『生きた器(き)械』と定め最新技術を持ち帰ることが使命だった」と指摘する(「明治の技術官僚」中公新書)。伊藤らが早期帰国したのに対して井上は技術の習得を続け、帰国後の71年から鉄道行政における事実上のトップとして、日本人独自の手による鉄道建設、技術専門家の育成、東海道本線の全面開通などを主導した。柏原教授は「立身出世より信じる政策の実現に力を注ぎ、事業化にはコスト意識を忘れなかった」と評価する。93年に鉄道庁長官を辞任した後も、機関車・客貨車の国産化に取り組み、1910年に欧州の鉄道視察中にかつての留学先のロンドンで客死した。

(2)狭軌か広軌か(後藤新平・1857~1929年)

台湾総督府で鉄道部長、中国東北部の南満州鉄道(満鉄)初代総裁、日本で初代・鉄道院総裁を務めたのが後藤新平だ。医師出身で行政に技術の合理性を生かそうとしたとされる。後藤は日本で狭軌(1067ミリメートル)だった鉄道のケージ幅を広軌(1435ミリメートル、国際標準軌)に改築しようとした。明治初期には工事費を節約できる狭軌が選ばれたが、近代化が進むにつれ、より速く・より多く搬送できるよう輸送力の増強が課題となった。広軌の方が安定し、より大型で高速の列車を運行できる。

しかし、当時は政党政治が始まろうとしていた。政友会はまず鉄道を全国に展開し、その後に軌間拡大を検討する「建主改従」が基本方針。鉄道を地元に誘致すれば選挙が断然有利になる。「鉄道と国家」(講談社現代新書)の著者である小牟田哲彦は「政治的介入を排除して長期的な鉄道政策を目指した後藤の広軌改築論が、皮肉にも政争の手段と化した」と指摘する。約10年間続いた政策論争の間に、後藤は合計3回鉄道院総裁に就いたが、政友会の原敬内閣となり広軌案実現の可能性は消え去った。

(3)下山事件(下山定則・1901~49年)

1949年7月、国鉄常磐線の北千住―綾瀬間で国鉄初代総裁・下山定則のれき死体が発見された。「国鉄三大事件」のひとつで、現在も未解決の事件だ。前日朝、下山は出勤途上で日本橋・三越本店に入店した後に行方が分からなくなっていた。終戦後の復員受け入れなどで膨張した国鉄職員の人員整理に対し、国鉄労働組合の反対闘争が強まっていた最中で、自殺説と他殺説が入り乱れた。

松本清張は著書「日本の黒い霧」で日本占領中のGHQ(連合国軍総司令部)の組織が関与した他殺説を強く匂わせた。一方、「新幹線をつくった男」(高橋団吉著、PHP文庫)では国鉄幹部OBの「国鉄総裁にしたのはGHQ中枢部だ。ミスター・シモヤマはウエルカムだった」という証言を記している。国鉄総裁は2代・加賀山之雄、3代・長崎惣之助と大事故による引責辞任が続き、任期を全うできた総裁は4代・十河信二まで待たなければならなかった。

(4)新幹線の父(十河信二・1884~1981年)

1955年から63年まで国鉄総裁を2期務め、東海道新幹線の建設を終始リードしたのが十河信二だ。鉄道院での官僚人生を皮切りに帝都復興院、満鉄理事、興中公司社長、林銑十郎内閣の組閣参謀(途中辞任)、西条市(愛媛県)市長、鉄道弘済会会長と要職を歴任したが挫折も少なくなかった。71歳で国鉄総裁に就任。2代総裁の加賀山は女婿に当たる。

東京から京阪神までを結ぶ日本経済の大動脈である東海道本線は、当時の旅客・貨物の輸送量が全体の約4分の1を占め、輸送力の大幅増強が急務だった。かつて後藤新平の部下として影響を受けた十河は、国鉄内の異論を押さえて新幹線に広軌を採用した。64年の東京五輪開催に対する世論の熱気も新幹線計画を後押しする形になり、スピード建設で五輪開幕式(10月10日)直前の同月1日に運転を開始した。その一方で、建設費は当初予算を大幅に超過。JR九州元社長の石井幸孝は近著「国鉄」(中公新書)の中で「もし純粋な民間企業であったら、必ずや複数の方式の選択肢の優劣を冷徹に比較し、所用投資額とその中長期の投資効果を入念にシミュレーション・リサーチするであろう」と指摘する。

新幹線の駅にまつわるエピソードをひとつ。岐阜羽島駅は大野伴睦・自民党副総裁(当時)が政治力を発揮して誘致したと言われてきた。しかし実際は、さまざまな岐阜県内の意見を調整し建設がスムーズに進むように動いたのが大野だったという。十河の生涯を描いた「不屈の春雷」(牧久著、ウェッジ)は国鉄総裁を退任した時、最初にあいさつに行ったのは大野の自宅だった記している。

(5)「高速鉄道」3代(島秀雄・1901~98年)

十河は国鉄を離れていた島秀雄を副総裁格の技師長として呼び戻し、技術面を一任した。「島秀雄の世界旅行 1936-37」(技術評論社)の著者、高橋団吉は「島はビッグプロジェクトにはシステム工学的な発想が必要だと説いていた」と話す。リスク回避のため新規の発明は用いず、証明済みの技術で性能や構造を改良していく手法を採ったという。

島家は「新幹線3代」を生んだ。秀雄の父・安次郎は戦前に新幹線の原型とされる「弾丸列車」計画を推進し、秀雄の子息の隆は東北・上越新幹線の車両設計責任者で台湾高速鉄道(台湾新幹線)の顧問も務めた。3人とも東京帝国大学(現・東大)工学部を卒業して「車両屋」と呼ばれる技術者となり、高速鉄道の開発と普及に尽くした。高橋団吉は安次郎・秀雄父子は最新技術に対する貪欲なまでの吸収欲を指摘する。20世紀初頭から40年間に合計5回、公費・私費で欧米の先進的な鉄道網を視察して回ったという。秀雄は正確さを追究する技術者としての姿勢を私生活にも持ち込んだ。朝食のナイフやバター、パンはテーブルに対し常に直角・水平・垂直に置いていたという。少しでもズレているとすぐ直し、子どもたちへのチーズは自らの手できっちりと25×25×4ミリ程度に切り分けたそうだ。

(松本治人)

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

経営 歴史 交通

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。