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最後の海相・米内光政による非エリートのリーダーシップ 日本海軍史の研究者 畑野勇氏に聞く

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今年も太平洋戦争が終わった「8月15日」が巡ってくる。日本がポツダム宣言を受諾し降伏した鈴木貫太郎内閣(1945年)で、決定的な役割を果たしたのが海軍大臣の米内光政(1880〜1948年、大将、首相)だ。日本最後の海相でもある。日本が対米戦に向かう契機となった日独伊三国同盟(1940年)に最後まで反対し、5年後の戦争終結をリードした米内は、非戦の国際協調派と評価されることが少なくない。一方で非エリートであり、リアルな現場主義に徹したことが強力なリーダーシップを可能にしたという指摘も出ている。シンガポールで日本海軍史を研究する畑野勇氏に聞いた。

「ハンモックナンバー」は125人中68番

「若い頃の米内は決して海軍エリートではなかった」と畑野氏。海軍兵学校では125人中68番で「ハンモックナンバー」と呼ぶ成績順を重視する海軍の人事システムでは、予想される最終ポジションは少将クラスという。実際、30〜40歳代の多くを米内は艦隊勤務、海外駐在武官として過ごした。ただ、畑野氏は「中央から離れていたので、昭和前期おける軍内の派閥抗争に巻き込まれなかった」と指摘する。政治と距離を置き、人格的に優れ部下からの信望の厚い米内は、海軍に伝わる理想の士官像を体現することになったという。

海軍で軍縮を進める「条約派」が人事で一掃され、軍備拡充を求める「艦隊派」にも批判が集まると、米内は将来のリーダー候補のひとりとして注目されるようになった。海上勤務で会得した現場主義は「昭和維新」という当時のスローガン、社会主義や全体主義などイデオロギーの流行とは無縁だった。横須賀鎮守府長官の時に発生したクーデター「2.26事件」も即座に青年将校らの反乱と判断したという。「米内を海相にと軍内の意見をまとめあげたのは後輩の山本五十六だった」と畑野氏は語る。山本は次官として米内とコンビを組み、後には連合艦隊長司令長官として真珠湾攻撃を構想した提督だ。米内は1937年から林・第1次近衛・平沼3内閣で海相を、40年に首相を務めた。海軍の切り札的存在で畑野氏は「昭和天皇の意向をくみ、リアルな手法に徹したことが天皇の信頼を勝ち得た理由だろう」と話す。

宮中との意思の疎通で意向をくみ取る

米内には侍従長など皇居内での勤務経験はない。それでも「海軍出身のベテランである平田昇侍従武官らを通じて宮中と意思の疎通を常に図っていたようだ」と畑野氏はみる。中央での経験が決定的に足りない米内にとって、大きな政治的資産だっただろう。昭和天皇は当時30代後半で、陸海軍トップはいずれも約20歳前後も年長だ。時には前言を翻したり、はぐらかしたりするような応対をしたケースもあったという。しかし「米内は年少の上司(天皇)に対しかしこまり過ぎたりせず真摯に向き合っていた」と畑野氏は指摘する。三国同盟反対という天皇の気持ちを察知した際は「米英に勝てる見込みはない。日本の海軍は米英相手に戦争するように設計されていない」など現場視点に徹して反対を続けた。畑野氏は「米内は当時の池田成彬蔵相の信頼も厚かった」と話す。しかし、第2次世界大戦の勃発(39年)と翌40年のドイツの対仏戦勝利は、日本を三国同盟締結へと向かわせた。

首相退陣後は表舞台から遠ざかっていたが、対米戦を開始した東条英機内閣が44年7月に退陣すると、米内は異例の現役復帰を果たし、小磯国昭内閣で副総理・海相に就いた。現役の海軍将校らからは長老OBの返り咲きに反発も出たが「昭和天皇の強い推薦があったようだ」と畑野氏はみる。米内は次官に徹底した合理主義者の井上成美を登用し、井上を通じてひそかに終戦工作を研究させた。

実際の戦争終結は原爆投下やソ連(現ロシア)参戦を経た後で、米内の復帰から1年以上を要した。この期間に空襲などで民間の犠牲者らが急増した。それでも畑野氏は、45年8月というタイミングのみ終戦が可能だったとみる。対米戦の勝ち目は無くなっていたが、ドイツのように首都ベルリンを目指して連合軍が進撃してきたわけではなかった。もう一度だけ米軍をたたき、少しでも講和条件を有利に持ち込みたいという思惑は、政治・軍事の指導層に広く共有されていた。現代の行動経済学が説く「サンクコスト(埋没費用)効果」が働いていたのかもしれない。早すぎる終戦工作は国内の講話派と継戦派との間で内乱を引き起こす恐れがあったという。

政治家としては100点中ギリギリ合格点

45年5月に発足した鈴木内閣は「海軍内閣」の側面が濃い。首相の鈴木貫太郎(海軍大将、枢密院議長)は侍従長経験が長く、昭和天皇の信頼が最も厚い軍人のひとりとして知られる。その鈴木を終戦内閣の首班に強く推した重臣で海軍長老の岡田啓介は、書記官長に女婿の迫水久常(大蔵省銀行保険局長、戦後に郵政相)を送り込んで補佐させた。米内は本土決戦を主張する陸軍に最高戦争指導会議や閣議などで対策を講じる一方、海軍が陸軍と対等に話ができるためには、何よりも海軍の発言力の維持が大事と考え、そのための努力も怠らなかったという。早すぎる講和主張は否定されるだけでなく、海軍の政治力も減殺される恐れがあった。「米内は45年8月に持てる全ての影響力をぶつけて終戦に導いた」と畑野氏はみる。

現在の研究では米内にミスが多かったことも指摘されている。ソ連の仲介に乗り気になったり、海軍内では明らかな人事配置ミスを犯したりした。数度の対中和平工作も失敗した。畑野氏は「機を見るに敏な人物ではなく、先の予測やそれに基づく行動をしない傾向があり、未知のものや情勢に対する関心や想像力は高くなかった」という。政治家としての合格点が100点中80点なら、米内は81点か82点だと評価する。

一方で「自分の言動の誤りを知覚したときには独力で対処し解決を図ることを厭(いと)わない責任感と実行力があった」と畑野氏は指摘する。当時の米内は極度の高血圧を患っていたにもかかわらず、45年12月の海軍解散まで大臣を務めた。海軍が旧制大学卒業者らを対象に特例で現役期間を2年間に限って採用した「短期現役士官」は、後の首相(中曽根康弘)や外相、日銀総裁、大蔵省(現財務省)事務次官から現代俳句協会会長(金子兜太)らまでを輩出し、日本の復興に一役買った。海軍の技術者は造船、自動車、鉄道、土木などの分野で経済成長に貢献した。

現代のビジネス社会にすぐヒントになりそうなのは米内の部下統率法だろう。「それぞれの能力で限度内で働いている間は、僕はほったらかしとくよ。能力の限界を超えて何かしそうになったら、気をつけてやらなくちゃいかん。注意しそこなって部下が間違いを起こした場合は、注意を怠った方が悪いんだから、こちらで責任を取らなくちゃあね」「人間にはそれぞれ与えられた幅がある。課長になると、このくらいの幅になって、部下を持つ。次長になるとこうなる。部長になるとこうなる。下をみる時には、幅の中で泳ぐだけ泳がせろ。枠からはみ出た時にコツンとやるのが本当の親切で、そうすればどんどん良くなるんじゃないか」と子息らに話していたという。

(松本治人)

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