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独立心と自尊感情…武士に学ぶビジネスパーソンの処世術 呉座勇一・信州大特任助教に聞く

歴史 リーダー論

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世界各国の歴史の中でも日本史がとりわけユニークなのは「武士」が長期にわたり政治・社会の中心を占めていた点だろう。中国や朝鮮半島で文官優位の社会が成立しても、日本では鎌倉・室町・江戸時代と約700年間も軍事貴族である武士の時代が続いた。そのパワーの秘訣は、武士自身の本質の中にありそうだ。呉座勇一・信州大学特任助教は近著「武士とは何か」(新潮選書)で「中世では主君への謀反も辞さない旺盛な独立心が武士を飛躍させた」と説く。終身雇用、年功序列などの雇用の制度が大きく崩れつつある現在、武士の本質は最前線のビジネスパーソンが組織の中で生き残るヒントになるかもしれない。

傍流・セミプロが正統派を圧倒

――現代でも「武士道」「武士に二言は無い」などの言葉は使われています。しかし、本質を解くカギとなる武士が誕生した過程については不明な点が多いですね。

呉座氏(以下敬称略) かつては、平安時代の荘園の上層農民が自衛のために武士となったという説が有力でした。しかし、「上層農民武装説」はマルクス主義の階級闘争史観に基づく思い込みに過ぎません。率直に言って、現在の歴史学界において武士発生論は手詰まり状況でしょう。武将らの「発言」やエピソードなどから内面のメンタリティーを読み解き、より正確で緻密な本質に迫ることができると考えます。

――著書の「武士とは何か」では源義家(1039〜1106年)から伊達政宗(1567〜1636年)まで33人の言葉やエピソードを分析しています。義家は源頼朝の先祖にあたり河内源氏の統率者でした。

呉座 平安時代には騎射など高度な武芸を習得している京都の武士が正統という捉え方でした。しかし、源平の戦いで京都の平家を破ったのは、頼朝の周辺に集まった「傍流・セミプロ」の東国武士でした。手段を選ばない戦い方で主流・正規の武士を圧倒し鎌倉幕府を樹立しました。自らの所領を経営し、時に暴力的、野蛮・残虐でもありました。

中世では「御恩と奉公」といわれるように主君と武士がお互いに義務を負う双務的関係が中心でした。当時の武士は独立心が旺盛で、しかも短期的利益より名誉を重んじました。主君に憎まれた知人を隠してかばったケースなどは少なくありません。その方が結局は長期的な利益につながるからです。彼らは自らの課題を最後は軍事力などで解決する厳しい「自力救済」の世界に生きていました。メンツを失えば周囲から軽蔑され、やがて自身の財産を他者から守ることができなくなります。

独立心と自尊感情が起こすイノベーション

――武士のライバルは武士ということですね。

呉座 強い独立心と自尊感情に支えられたアニマルスピリット(血気)が中世武士の本質です。だからこそ合戦の戦略や戦術、自領統治などでさまざまなイノベーションを引き起こしたともいえます。世鏡抄という書物には「よそから移籍してきた侍は万一の時は懸命に戦い、3年の間に恩賞が与えられなければ別の主君に仕えよ」との処世訓が記してあります。頼朝の絶大な信頼を受け関東武士のかがみとされた畠山重忠(1164〜1205年)でさえ「謀反を企てていると噂されるのは、かえって名誉だ」と言い切っています。仕えるに値しない主君に反抗する独立心と自尊心が無ければ合戦の役にも立たないという主張でした。

――応仁の乱(1467〜77年)を契機に武士社会の実力主義・実質主義がさらに進んだようにも映ります。

呉座 西軍の総大将だった山名宗全(1404〜73年)は、朝廷の大臣に「アナタは様々な過去の事例に詳しいが、今後は『例』に代えて『時』という言葉を使いなさい」と諭したといいます。過去より現在の方が大事ということです。東軍の総大将・細川勝元の子息だった政元(1466〜1507年)は「大金を投じる天皇の即位式などは無駄。実質を伴わなければ『王』とはみなされない。現状のままでも自分は(当時の)後柏原天皇を国王と思っている」と言い放ったとされます。

――様々な武士の言行録からは、一般のイメージとは異なる、その武将の素顔が垣間見えることもあります。

「空気を読む」信長、自身の戦死も想定する家康

呉座 革新的なカリスマリーダーと見られてきた織田信長は、実は世間の評判に目配りする「空気を読む」タイプだったようです。将軍・足利義昭に対する意見書では外聞・諸人・世間という言葉が頻出します。世間の人々が義昭の振る舞いを批判しているから心を入れ替えなさいという趣旨です。その後の信長は、義昭を追放しても最後まで和解を模索しました。主君に弓を引いたとの悪評が広まることを恐れたのでしょう。

徳川家康は関ケ原の戦いに遅参した後継者の秀忠を叱責しました。ただ、家康の怒りの核心は遅刻の事実そのものではなく、途中で大軍を率いていたのでは天下分け目の合戦に間に合わないと考えた秀忠が、周りの手勢のみを連れて急行したことでした。万が一家康が戦死したら弔い合戦をしなければならないのに少人数ではどうにもならないというわけです。中世では自家の存続が第一です。自分が戦死するケースまでを想定した家康の、卓越した危機管理能力がうかがえます。

――その家康が死病にかかると伊達政宗に謀反の疑いがかけられました。

呉座 自分の名誉が汚されたとして憤っても不思議はありません。しかし政宗は家臣の反対を押し切って家康との面会におもむき「天下への望みはありません」と面前で告白し、家康の了解を得ました。自分自身の名誉より主君への忠誠、自家の保全を優先したのです。政宗の言動から価値観を転換した近世武士のメンタリティーを読み解くことができます。太平の世となり社会が安定すると、新しい主取りをすることは困難になり、武士は唯一無二の主家に尽くすことに存在意義を見いだすようになりました。自立した所領経営者から主家から俸給を与えられるサラリーマンへと変化したのです。中世武士、近世武士のそれぞれのメンタリティーは現代でも息づいています。ビジネス社会では時代の流れや自らの気風も勘案して参考にする方法もあるのではないでしょうか。

(聞き手は松本治人)

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