1600年(慶長5年)9月15日の天下分け目の戦い「関ケ原の合戦」について歴史学者による論争が起きている。東軍率いる徳川家康が石田三成の西軍を関ケ原(岐阜県関ケ原町)で破り、全国の覇権を握った一戦はよく知られるが、「革新派」の第一人者であるベテラン大学教授が、勝敗に至る経緯などの通説を後世のフィクションと断定する新解釈を打ち出して中堅・若手の研究者らに衝撃を与えた。ところが、今度は「伝統派」から大御所の名誉教授がほぼ全面的に反論する新著を出版。時ならぬ「令和の関ケ原」の様相を呈している。
■現代に通じる寝返り・日和見
422年前の関ケ原合戦が今でも関心を呼ぶのは、東西両軍の多数派工作に謀略、裏切り、日和見、懐柔、忠誠、友情、嫌悪……と現代の企業社会にも通じる要素が詰まっているからだろう。豊臣秀吉の死後(1598年)から家康はライバル大名らを次々失脚させて実権を握っていく。しかし、1600年8月の会津征伐(対上杉景勝)で家康が畿内を離れたスキを狙い、秀吉の側近だった三成は反家康派の大名を糾合し挙兵。家康も遠征途上の「小山評定」で上杉討伐軍の豊臣系大名を取り込み、反転攻勢をかけた。
約3週間後に東軍約8万、西軍約7万は関ケ原で激突。当初は一進一退の形勢だった。しかし、西軍ながら日和見派の小早川秀秋を、家康が鉄砲射撃で威嚇し裏切りを催促。これが決め手となって東軍勝利に終わった――。歴史小説や映画などでもたびたび取り上げられてきたおなじみのストーリーだ。
■「石田三成は瞬時に敗北、戦闘は短時間で終了」の新解釈
この通説に対し、別府大学の白峰旬教授は「関ケ原合戦の真実」(宮帯出版社)などで新解釈を提示した。その内容は(1)小山評定はフィクション。実在を明確に示す同時代の一次史料はなく、根拠は改ざんされた後世の二次史料だけ。会議における武将間の取り決めを記した文書もない(2)関ケ原では午前10時頃の開戦と同時に小早川が裏切り、三成は瞬時に敗北。「即座に乗り崩された」という記述が残る(3)合戦前夜には小早川の離反が明らかになったので三成らは拠点の大垣城から離脱している。小早川が在陣する松尾山への当日の鉄砲射撃は、江戸時代前期の二次史料で東軍に属する武将が撃ったという逸話が元ネタ。これが家康自身の指示のようにエスカレートしていった――などと分析した。
若手研究者の水野伍貴氏は「白峰説は、これまでの定説に風穴を開けた」と話す。関ケ原で実際に戦った武士の書簡やイエズス会の報告書など一次史料を駆使したのが特徴で、軍記物などに描かれたエピソードを創作だと実際に突き止めた視点が新しかったという。
ところが、今度は国際日本文化研究センターの笠谷和比古・名誉教授が「論争 関ケ原合戦」(新潮社)で反撃に打って出た。
その内容はまず、小山評定は実際にあったと主張するものだ。「東海道の諸城は、反転攻勢する東軍の通過後に徳川配下の兵が配備されている。家康本人と諸大名の合意がなければ実施できない」(笠谷氏)。家康自身が傘下の武将に「重ねて相談すべき」とした書状も残っているという。
■鉄砲射撃で裏切りの決断迫った経緯はない
次に「即座に乗り崩した」という表現は当時の慣用句だとも笠谷氏は指摘する。かつて織田信長も長篠の戦い(1575年)の勝利を即座に乗り崩したと記した(実際は8時間ほど戦闘が続いた)という。関ケ原で両軍の布陣は夜明け前に完了しており、午前10時まで開戦がずれ込むとは考えにくいとも分析。「関ケ原の朝霧が完全に晴れ、家康本陣も戦闘に参加したのが午前10時ではないか」と笠谷氏はみる。参戦した島津家の家臣に「夜明けから戦い」と記した文書も残る。
第3に「小早川が裏切った」と叫んだのは西軍ではなく東軍最前線の福島正則だ、と笠谷氏。開戦後も動き(裏切り)を見せない小早川の真意を疑った――。笠谷氏は「小早川への鉄砲射撃はあった」と結論する。ただ、家康が踏み絵を踏ませ、小早川に裏切りの決断を迫ったような勇ましい経緯ではなかったようだ。「備前老人物語」という江戸時代初期の二次史料に、徳川方の武士が撃ちかけたものの「誤射だった」とわざわざ釈明したエピソードが記載されている。恐る恐る小早川の出方を探っていたのか。その小早川は東西両軍から強く疑われつつ、自分を一番高値で売りつけられるチャンスを見計らっていたのかもしれない。
水野氏は「関ケ原の戦いが短時間で終わったとは考えにくい」と分析する。徳川軍は家康4男の松平忠吉や、四天王の井伊直政といった主要人物が負傷している。同じく四天王の本多忠勝は自身の馬を失ったという。家康周辺でも激戦だったわけだ。仮に大勝だったならば、わざわざ辛勝だと言い換える動機は乏しいだろう。
■情報革命が促す新たな「戦国時代」像
笠谷氏は研究の出発点は同時代の一次史料であるべきだと強調する。しかし、「異なる時代や場所で作成された複数の二次史料が同じ結論に達していたならば、それなりの価値を見いだせる」と話す。芝居じみた話だから噓だという決めつけは正しくないという。その一方、二次資料の扱いが増えれば研究者自身の恣意や認知バイアスが入り込む余地も多くなりそうだ。
斎藤道三は2人いた、織田信長は破壊的なイノベーターでなく漸進的な改革者――。戦国、安土桃山時代における斬新な解釈が相次ぎ発表されている。背景のひとつは「失われた30年」の影響だろう。司馬遼太郎氏の小説に登場するような、より上を目指す高度成長期的な英雄像でなく、歴史的人物の等身大の研究が求められている。
水野氏は「インターネットによる敏速かつ広域な情報公開や、SNS(交流サイト)の普及が大きい」と話す。研究者間での情報共有が容易になり、新史料の発掘や新たな視点の研究を後押ししている。二次史料を適切に扱うためには「研究者自身の『目利き力』の錬磨が欠かせない」と水野氏は話している。
(松本治人)