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太平洋戦争の開始と結末 「カミソリ東条」人事の限界

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太平洋戦争(1941~45年)の開戦を決めた東条英機元首相(1884~1948年、在任1941~44年)は、人事面でも辣腕を振るい「カミソリ東条」と呼ばれた。陸軍大臣を兼務したまま首相に就任し、退陣する際も陸相留任を図った。権威と権力の源泉が人事にあることを東条は熟知していた。東条が抜てきした参謀らがアジア・太平洋上の作戦を立案し、戦争の帰趨(きすう)を決めた。「東条人事」の限界を探った。

積極派、信念居士、敗者復活組を重用

陸軍省の冨永恭次・次官や佐藤賢了・軍務局長、真田穣一郎・軍事課長やその後任の西浦進・陸相秘書官ら東条の側近、秘蔵っ子と呼ばれた将校は少なくない。歴史学者の岩井秀一郎氏は、東条が重用した人材には(1)優秀な人材(2)かつての部下(3)攻勢主体の積極派(4)固い信念(5)敗者復活組――などの特徴があったという。

特徴の(1)~(3)は昨今の日本企業の人事でもありそうだ。さらに東条は安易な迎合を嫌い「いわゆる『骨のある』中堅幹部を見込んだ」と岩井氏。企画案を差し戻された部下が「一晩考え抜きましたが、やはり本案が最善です」と報告すると案外あっさり承認した――などのエピソードも残る。敗者復活組に関しては、軍人として何度も左遷と復活を繰り返した東条自身の経験から来ていそうだ。

岩井氏は「(1)~(5)の条件を全て満たしたのが、参謀本部のエース級である服部卓四郎・作戦課長(1901~60年)だった」と指摘する。最高レベルの軍事機密に触れる作戦課は、陸軍中枢の中でも、さらに別格のエリート集団だ。陸軍大学を極めて優秀な成績で卒業した後、参謀本部勤務時の課長が東条だった。「服部はパリ勤務の経験からか態度は紳士的だが、自分の信念を変えない外柔内剛タイプと言われた」(岩井氏)。参謀畑の出世コースを順調に歩んだものの、39年のノモンハン事件(対ソ連=現在のロシア戦)で苦戦した責任で左遷させられた。東条が陸相に就いた後に古巣の参謀本部に戻った。

継続か転進か、岐路に立つと強硬路線に

「服部の上司は日米対立を不可避と考える田中新一・作戦部長、部下は突撃精神過剰の辻政信(恩賜・ノモンハン左遷組)・戦力班長と、どちらも東条人事だった」と岩井氏。最近では日米開戦までのプロセスを行動経済学、社会心理学で解き明かそうとする研究がある。行動経済学の「プロスペクト理論」は目の前の損失(=対米譲歩)を嫌い不確実な将来に賭けてしまう行動性、社会心理学の「リスキーシフト」は集団で判断する時、よりリスクの高い決断をしてしまう心理状態のことだ(「経済学者たちの日米開戦」牧野邦昭・慶応大教授著)。ましてや作戦部・課は同じように「先制主導」を重んじるタイプの集まりだ。服部らがけん引役となって陸軍は対米開戦へのめり込んでいった。

太平洋戦争の緒戦は海軍のハワイ・真珠湾攻撃が有名だが、陸軍もシンガポール、フィリピン、オランダ領インドネシア、香港と連戦連勝した。岩井氏は「服部の貢献は小さくなかった」と分析する。しかし、ガダルカナル攻防戦(42年)からは、日本が勝てない流れに一変した。東条はいったん服部を更迭して1年後に再び作戦課長に復帰させたものの、日本はフィリピンや南洋諸島で敗退を重ねた。岩井氏は「服部らは米軍の軍備や後方支援の実力を軽視し、戦闘が不利となっても最初の目標にこだわって方針転換できなかった」と話す。

強気で鳴る東条の考えを忖度(そんたく)する幕僚ばかりだったわけではない。東条を面罵したケースもあったほどだ。しかし、戦線継続か縮小かの岐路に立たされた時、参謀らは戦力増強で最後まで戦い抜く方針を選択しかえって犠牲を増やした。東条が自分好みの人材で固め、登用のバランスの幅を広げなかった人事の限界だった。

梅津参謀総長は「後始末役」

東条退陣後の陸軍をリードしたのが、44年7月に中国東北部の関東軍司令官から東京に戻った梅津美治郎・参謀総長(1882~1949年)だ。東条より2歳年長で、陸大を首席で卒業した陸相候補の常連だった。日記やメモは残さず回想録も書かず、冷徹、明晰(めいせき)、寡黙、厳格、合理的などの人物評がついて回った。岩井氏は「梅津は戦争終結・講和が必要とみていた。近親者に『また後始末役だ』とぼやいていた」と推測する。東京でのクーデターである二・二六事件(1936年)後に陸軍次官として大規模な粛軍人事を取り仕切り、ノモンハン事件(39年)後には関東軍司令官として組織の立て直しと国境紛争の再発を防いだ。太平洋戦争中に、中国東北部だけは静謐(せいひつ)状態を持続させた力量は高く評価され、首相候補の一人としても名が挙がった。

梅津が選択した和平への道筋は曲線的だった。「陸軍の代表として戦争継続を唱えつつ、人事異動で東条が起用した徹底抗戦派を中枢から外していった」と岩井氏。冨永次官は44年8月にマニラへ、12月には佐藤軍務局長と西浦軍事課長が中国戦線へ。服部も45年2月に中国へ転任させた。一方で4月に同郷の大分県出身者・阿南惟幾・陸相を実現させた。偶然、海軍の豊田副武・軍令部総長も同じ大分出身。江戸時代に小藩が分立したため長州・薩摩のような藩閥意識はなかったとされるが、終戦へ向けて「大分トリオ」がそろった。

梅津は45年6月、昭和天皇に戦力低下が著しい陸軍の現状を具体的に報告したという。岩井氏は「梅津は昭和天皇自身に動いていただく以外は戦争終結が不可能とみていた」と分析する。ここから連合国のポツダム宣言、日本側の無条件降伏の検討から受諾、8月15日の終戦の詔勅への流れが始まった。陸軍がほとんど抵抗なく前日までと180度異なる敗戦の方針を受け入れたのは、梅津の手腕が大きかったと岩井氏はみる。

もちろん、梅津への批判は現在も残る。太平洋戦争における軍と民間の犠牲者約310万人は、大多数が最後の1年で生命を失った。もっと早く講和へとかじを切っていれば、全国各地への空襲も沖縄戦も、広島・長崎への原爆投下もソ連参戦もなく、多くの国民が助かっただろうというものだ。

岩井氏は「梅津の狙いは終戦に反発するクーデターで、日本人同士の闘いが起きるのを防ぐことだった」と話す。それが正面を向いて強硬論を唱え続けながら、直立不動の姿勢のまま少しずつ後ろへ下がっていく手法につながったとみる。

現在のビジネス社会でも、会社を挙げた大プロジェクトには反対しにくい。よしんば直接的な方法で否定的な声を上げても、経営陣にまではなかなか伝わらない。梅津が用いた手段は最善ではなかったが、終戦への流れを決めた。45年3月、陸海軍は共同で細菌兵器を使った反撃作戦を立案したという。梅津は「そんなことをすれば米国だけでなく全人類を敵に回す」と中止させた。最後の参謀総長の隠れた功績だろう。

(松本治人)

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