自然や生物多様性を企業戦略として重視する動きが国際的に広がり、日本は「環境DNA」と呼ぶ先端技術を駆使した海洋生物のビッグデータ構築で一歩リードしている。東北大学は日本郵船グループなどと提携して、海や河川の観測ネットワーク「ANEMONE(アネモネ)」の運用を始めた。海や河川の水から得た生物の DNA を分析し、魚類の増減・分布傾向を示す「海の生きもの天気図」をオープンデータとして提供している。「NIKKEI ブルーオーシャン・フォーラム有識者会議」のメンバーで ANEMONE コンソーシアム代表でもある東北大学の近藤倫生・大学院生命科学研究科教授に聞いた。
海洋生物の状況をビッグデータで「見える化」
――生物多様性の保全を求める動きが急速に広がっています。欧州金融機関を中心に立ち上げた「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」は、今秋にも企業に求める情報開示の内容を決定するほか、2022年末の生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)でも企業に取り組み強化を求める「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択されました。周囲を海に囲まれた日本では海洋資源を保全・活用しようとする声は以前から強くありました。
近藤氏(以下敬称略)「ANEMONEは環境DNAを利用した生物多様性観測網です。海を社会的な公共資源と捉えて大学・企業・行政・地域住民が連携し、全国をカバーする生態系ビッグデータを獲得。日本近海に生息する魚類の現在進行形の状況を『見える化』した形で一般公開しています。これまで検出できた魚類は約900種。生息・成長状態が分かれば乱獲などで生態系を毀損することなく継続的な漁獲計画が可能になります。温暖化の影響による生物分布の北上や回遊の変化、漁場の変動など広域的な傾向も把握できます。東北大、筑波大、かずさ DNA 研究所を中心に、全国の大学や研究所、地方自治体が連携して 19 年にスタート。日本郵船やアースウォッチジャパン、南三陸町なども加わって昨年 6 月にデータベースを公開しました」
――具体的な調査活動はどのように行っていますか。
近藤「「臨海実験所等の協力で全国各地で数リットルの水を採取、フィルターで濾過(ろか)して送付してもらいます。フィルター上の生物の鱗や粘液などから DNA を抽出、PCR 技術で増幅した上で分析し、バイオインフォマティクス技術を使ってデータ化します。現在の定点観測地点は合計で沿岸部 55 カ所、河川 18 カ所、湖沼 4 カ所となり今後拡大していく方針です。また、企業や市民による観測も広がりを見せています。日本郵船グループの運航船が航路上の海水 30 リットルを、毎月5、6カ所でサンプリング採取し、外洋での観測に貢献しています。一方アースウォッチ・ジャパンは市民ボランティアらと国内を調査。南三陸町では南方性種の『アイゴ』が域内で見つかるなど魚類の分布域が変わってきています。ANEMONE を温暖化対策に用い、実際の使い勝手を試しています」
バケツ1杯の水から生物がわかる「環境DNA」
――環境DNAは海水など自然環境中に存在するDNAを網羅的に調べることで、生物の量や個体数、特定の生物の存在を推定する技術ですね。
近藤「『バケツ 1 杯の水から、存在する生物の種類や分布がわかる』といわれます。自然環境を回復基調に乗せようとする『ネイチャーポジティブ』を進めるには、現状把握のために生物を実際に捕獲して調査する膨大な時間が必要です。しかし、環境 DNA の手法はそうした労力や費用を省くことができます。ただ環境DNAは水に乗って流され、時間とともに分解が進みますのでデータの解釈には注意も必要です」
――環境DNA学会の初代会長を22年末まで務めました。
近藤「環境DNAの歴史は短く、2008 年にフランスで外来ウシガエルの発見に使えると報告されたのが最初です。しかし当初はほとんど注目されることもありませんでした。日本では 10 年代から目覚ましい発展をとげ、研究、技術レベルともに世界をリードしてきました。私は 1996 年に京都大理学部を卒業した後に龍谷大学の准教授時代に環境 DNA と出合いました。17 年に環境 DNA 学会を立ち上げ、18 年に東北大に移ってからは全国的なサンプリング、データ解析などを続けています。多様な生物が互いに関わりつつ駆動する巨大な複雑系である生態系の予測・制御・設計を可能にする新しい研究分野を開拓したいと思います」
――ANEMONEを通じた連携・情報交換の場として「ANEMONEコンソーシアム」を立ち上げました。
近藤「環境DNA観測の基盤構築や関連技術の研究、実用化と普及の促進などを目指しています。海洋研究開発機構(JAMSTEC)などの公的機関や大学関係、神奈川県などの自治体、かずさDNA研究所など公益法人の研究所、カカクコムなどの企業、NPO法人など約40企業・団体が参加しています。23年度には100企業・団体にまで拡大したいですね」
「赤潮保険」など新たな保険関連の商品開発にも有効
――業種はIT関連や水産会社のほかに、保険業のMS&ADインシュアランスグループホールディングスも加盟しています。
近藤「TNFD の開示指針が具体化すると、海洋生態系などへのリスク評価が企業価値や財務内容に直接影響を及ぼします。漁獲量を確保できるかといった多国間のサプライチェーンの問題にもつながり、正確に企業評価するために ANEMONE のデータを活用したい考えがあると思います。さらに『赤潮保険』といった新たな金融商品の開発にも有効でしょう。危機管理などを支援する東京海上ディーアール(東京都千代田区)もコンソーシアム設立当時からのメンバーです。東北大学は昨年、日本の大学として初めて TNFD フォーラムに参画しました」
「大手のほかには都内のビルや大学の研究所内に海洋環境を再現するイノカ(東京・港)といったスタートアップ企業や、水生生物の調査・分析を手掛ける開発型ベンチャーのプラントビオ(神奈川県小田原市)などもコンソーシアムに参加してもらっています」
――サプライチェーンのグローバル化に伴いTNFDへの注目度が高まっています。
近藤「産業活動に伴う自然へのインパクトを評価するには、環境DNAのような生態系の複雑さを捉えられる技術が欠かせません。TNFDでは、ビジネスの自然への影響や依存性を評価することが求められますが、人間社会に関する大規模データと環境DNAデータを合わせて解析することで、可能になっていくのだろうと思います」
――国際的に環境DNAへの取り組みも出てきていますね。
近藤「北米やヨーロッパでも環境 DNA を使った生態系観測の動きが広がっています。オーストラリア・ニュージーランド地域では『サザン eDNA ソサエティー』が発足しました。2月に開催された学術大会は、研究者や企業関係者など約300 人が参加する盛況な大会でした。環境 DNA 技術への期待を感じさせます。今後は日本とオセアニア地域の連携で太平洋上の魚類のビッグデータ化が課題になります。互いに近海の生物が遺伝子的にどう結びついているかも解決していきたいですね」
(聞き手は松本治人)
海の環境を守り、その資源を正しく利活用する方策や仕組みを考え、内外に発信していく目的で、日本経済新聞社と日経BPは「NIKKEIブルーオーシャン・フォーラム」を設立しました。近藤倫生氏など海洋に関連する多様な領域の専門家や企業の代表らによる有識者委員会を年4回のペースで開き、幅広い視点から議論を深めて「海洋保全に関する日本からの提言」を作成します。近藤氏は2023年5月に開催する「日経SDGsフェス」のパネル討論に登壇する予定です。