アトツギの作法

後継社長急逝の家庭用品会社、承継環境整え若手を抜てき どうする事業承継 アトツギの作法 シービージャパン(東京都足立区)

リーダー論 中堅・中小 事業承継

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シービージャパン(東京・足立)は家庭用品の企画・製造を手掛ける。創業者が右腕と頼み、後を託すはずだった前社長が急逝。営業で頭角を現していた若手従業員に後継者候補として白羽の矢を立て、経営、株式双方の承継を周到に進めて世代交代を実現させた。

キッチン、ダイニング用品や生活家電を企画・製造

同社は海外の協力企業にキッチン、ダイニング用品や生活家電の製造を委託し、量販店を通じて販売する。電子レンジを使って簡単な調理ができるシリコン調理器や薄型弁当箱などのヒット商品がある

青木宏氏(75)が2000年に設立した。青木氏は実父が役員を務めていた暖房器具製造業を経て、東北地方を地盤とする家庭用品卸売業に勤務。関東地方でスーパー、ホームセンターなど大型小売店の販路拡大を担い、売上高を大幅に拡大させた。

起業は若い頃から意識していた。「父が『青木君、後進に道を譲ってくれないか』と役員退任を迫られたのをみて、サラリーマンは自分で引き時を決められない、いつかは独立しようと考えていた」。

家庭用品卸で手腕が認められて退社を引き留められたこともあり、起業したのは52歳のときだ。家庭用品畑を歩んできた経験を生かそうと、製造設備を持たず、設備投資などの起業資金負担が少ないファブレス家庭用品製造業のシービージャパンを、家庭用品卸の部下などと4人で立ち上げた。

青木氏は家庭用品卸在籍時に培った大型スーパーなど小売店の購買担当者との人脈でまず販路を確保。アジア各国の製造業に連なる人脈を生かし、海外の製造協力先も次々と開拓した。創業7年で売上高10億円を超える規模に育てた。一時は新規株式公開も視野に入れ、公的投資会社である東京中小企業投資育成の多額の増資も受け入れた。

「50歳を過ぎて創業したので、事業承継は創業当初から頭にあった」(青木氏)。11年に創業メンバーの専務に社長の座を譲り、青木氏は会長に就いた。青木氏は「手厳しい反対意見も言うが、それぐらいの方が頼もしい」と全幅の信頼を置き、いずれは自らの代表権も外すつもりだった。

このころ、営業担当者として頭角を表したのが樋口圭介氏(43)だ。シービージャパン設立2年後の02年に入社した樋口氏は、実家が経営する調理器具製造会社の後継者候補でもあった。青木氏は家庭用品卸在籍時から樋口氏の実父と旧知の仲で「他社での修行を目的に預かった」(青木氏)という。

実家の調理器具製造会社が経営危機に陥った時、樋口氏は辞職を申し出た。しかし、青木氏は経験を積ませようと「こういう時に会社がしなければならないことを、うちにいたまま見ておきなさい」と引き留めた。

その後、樋口氏は販売先の半分以上を1社に依存していたシービージャパンの「一本足体質」を変えようと新たな販売先を次々と開拓していった。青木氏も「決断が早い。育ちもあって社長の後継者の器だ」と思うようになった。青木氏が当時の社長に「さらに後を託せるのは誰だと思う?」と聞くと、社長は「樋口しかいません」と言い切った。2人の見方は一致した。樋口氏は30歳代で営業部長に就いた。

交代からわずか4年後の15年に社長の重病が発覚した。次第に出社も難しくなり、15年5月に40歳代の若さでこの世を去った。「社長を長い間不在にしておくわけにもいかない」。青木氏は樋口氏を後継社長にするべく動き出した。

「次の社長はおまえしかいない」

青木氏は社長死去後、樋口氏を呼び「次の社長はおまえしかいないぞ。覚悟を決めろ」と言い渡した。樋口氏は「今はこの会社の緊急事態だ」と悟り「わかりました」と即答した。

青木氏は樋口氏にまず「帝王学を学ばせる」必要があると考え、経営者セミナー会社の後継者塾に1年間通わせることにした。プログラムは金融機関との交渉術、中小企業に欠かせない、ターゲットを絞り込んだ販促方法など実践的な内容が多い。「実際の取引でも、相手のペースに惑わされずに話すノウハウを身につけられた」(樋口氏)

16年10月に樋口氏は社長に就任。青木氏は並走期間が必要とみて、会長として代表権を持ち続ける一方、「代表権を持っている間に、(若い樋口氏が)トップマネジメントをしやすい環境をつくらなければならない」と考えた。手をつけたのが古参従業員の人事だ。

会社で中心的な役割を果たしていた幹部には、樋口氏より年長者もいた。創業4年目で他社から迎え入れた常務は、財務面などで会社を支えてきた。それでも「私が代表権を外れた後、事実上のツートップとなってやりにくくなってしまうのは避けたい。『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』だ」と身を引いてもらった。前社長と同じ創業メンバーの一人にも退職してもらった。

株式承継に知恵絞る

経営の承継とは別に課題となったのが株式の承継だ。シービージャパンは利益も安定していて税制上の株式評価額が高い。

「オーナー会社にはしない」との考えの青木氏は創業後早い時期に従業員持ち株会に自らの株式の一部を譲っていた。株式承継策を考え始めた18年時点で、青木氏、樋口氏、持ち株会、そして東京中小企業投資育成がそれぞれ議決権比率で13〜14%を保有していた。

辞職した従業員の持ち分を自己株として所有したり、海外の取引先にも増資を引き受けてもらったりで株式が分散している問題もあった。青木氏は「社長と従業員持ち株会を合わせた比率を過半数にはしたい」と考え、樋口氏への株式集約を進めることにした。それには数千万円の費用が必要で、株式評価額を下げる必要があった。

株式評価額の算定方式は、類似した上場会社の株価を参考に、利益、配当、純資産から評価額を決定する「類似業種比準方式」だ。辞職した従業員の退職金の上積みなどで利益を下げ、評価額の引き下げにつなげた。

持ち株比率の8%にあたる自己株は「経営責任を持つため」と樋口氏が借入金で取得して持ち株比率を増やした。少額株主がいる台湾や香港には青木氏自ら足を運んで自己株式として買い取って消却。樋口氏と持ち株会の持ち株比率は過半数となり、トップの経営方針に従う東京中小企業投資育成分も合わせると同7割を確保できた。経営、株式の承継両方にメドをつけた青木氏は18年に代表権を外れた。

創業者の出社は週3日 社会貢献活動に注力

樋口氏は「青木会長の創業時からそうだったが、当社は平均年齢が若い。若い人が自由に活躍できる環境を維持していきたい」と話す。自らも若い頃から仕事を任せてもらったからこそ、今があるとの思いもある。

経営の一線を退いた青木氏は、シービージャパンへの出社は週3日にとどめている。「これからは社会貢献活動もしたい」と、取引先の従業員への教育指導活動や、栃木県内で地元農家の栽培した作物を直売する活動に力を入れている。

自らの路線を継承しつつ、樋口社長ら若返った経営陣に「最近は新卒を定期的に採用し、女性の比率も増えている。世代交代が進んでくれればいい」と期待を寄せている。

(一丸忠靖)

「どうする事業承継 アトツギの作法」は中小企業診断士の資格を持つベテランのライターが、事業承継に取り組んだ中小・中堅企業の実例をリポートします。随時掲載。

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