人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」に関心が高まっています。ESG(環境・社会・企業統治)の観点から情報開示も求められ、企業は対応を急いでいます。この連載では書籍『日本の人的資本経営が危ない』(日本経済新聞出版)をもとに、「人的資本経営」から見た日本企業の歩みや世界の中で位置づけを踏まえ、日本企業が今後とるべき戦略などについて有識者インタビューを通じ解説します。
■内田恭彦・山口大学経済学部教授
内田恭彦氏は、「人的資本経営」を30 年以上にわたって研究してきた。言葉は根づいていなくとも、「人的資本経営」を体現してきた日本企業は実は多いと語る。ビジネスモデルの歴史をひもときながら、競争を戦い抜く日本企業の差別化戦略をうかがった。
「人的資本」に依存した経営を行ってきた日本企業
佐々木 内田先生は30 年以上前から人的資本に関する研究に携わってきました。日本企業に根づかなかったこの「人的資本経営」がいま、注目されている理由について、率直なところ、どう感じていますか。
内田 「人的資本経営」という言葉自体は流通していなくても、一部の日本企業は人的資本経営の「本質」に近いことをやってきたと考えています。日本企業は「人的資本に依存した経営を行ってきた」ということです。日本には根本的に「企業特殊性の高い技術、知識を企業内部で開発・蓄積し価値創造を行う」というメカニズムが根づいているように思います。いま、注目される理由は「知的資本」の時代が到来したからです。知的資本をつくり出すのは人間ですから、人材に注目するのは当然の流れだと考えます。
佐々木 この30 年の間に「人的資本経営を推進してきた日本企業は多い」とのことですが、その理由をもう少し詳しく教えていただけますか。
内田 日本企業についてお話しする前に、世界のビジネスモデルの変遷から説明させてください。英国で起きた前期産業革命以前の時代、ビジネスモデルの中心は「交易」でした。ある物を生産している地域では希少性がないため安くしか売れないが、それを遠くの地で高く売り、その差分で利益を生み出すというものです。
その時代、企業はオーナーが地域間価格差にもとづき交易計画(=戦略)を立て、その遂行のための必要な人材は外部の人材ネットワーク(労働市場)から航海のたびに集められ、航海が終われば解散していました。企業の価値の源泉は企業外にあり、人材は戦略遂行の単なる手段にすぎなかったので、これが合理的なビジネスモデルでした。
19 世紀後半からの後期産業革命以降、ビジネスモデルの中心は製造業へと変化します。部品から何からすべてを自社で製造し大量生産するフォード生産システムのように、社内で特殊な技術を持ち、技術の効率性で利益を生み出していました。会社で人材を雇用する必要性が生まれ、知識と技術のあるエンジニアなどは終身雇用となりました。そして、他社との競争に打ち勝つために差別化を図るようになります。
こうした歴史的流れのなかで従来の交易型のビジネスモデルを強く継承する「外部から機械を購入し、部品や材料を安く仕入れ、高く売る」といったビジネスモデルが生まれます。一方で、「人材を長期的に雇用しながら企業内部に特殊な知識、技術を開発・蓄積し、差異化の源泉とする」という新たなビジネスモデルが発達しました。後者は企業内部に差異化する装置を持つということです。
1980 年にマイケル・E・ポーターが『競争の戦略』で、5 フォース・アナリシスや3 つの戦略類型(「コスト・リーダーシップ戦略」「差別化戦略」「集中戦略」)を提示しましたが、後期産業革命以降の生産性の拡大で市場が飽和していくなか、供給側の価格交渉力が低下していたので、彼の効率的な投資先の選択や事業の差別化の判断のためのフレームは時宜を得たものでした。当然、内部に差別化の装置を持つ人材を長期に雇用し、企業特殊性を築くビジネスモデルは競争優位を有するものとなりました。
日本はというと、1950 年代を中心に各地で大きな労働争議が生じたこと、およびQC サークル活動(小集団改善活動)が導入され、ブルーカラー人材の強化がなされたことから、ホワイトカラーだけでなくブルーカラーの終身雇用も進みます。その結果、人材の人的資本(知識、知恵、経験)を活かした画期的なアイデアで現場改善がなされ、企業が世界での競争力に打ち勝っていきました。製造だけでなく研究開発などでも同じ手法が用いられ(TQC)、特殊なビジネス、突き抜けたビジネスを行う日本企業が増えていったのです。日本のメーカーが1970 年代に発展したのはこのためであり、日本企業の一番の強みであると思います。
自社の強みの言語化と技術者の社内育成を強化し差別化を
佐々木 なるほど。興味深いお話ですね。世界と比較して、日本企業が優れていたことを示す事例があれば教えてください。
内田 例えば、富士フイルムです。フィルム技術は大変高度なもので、1990 年代は世界に4 社しかありませんでした。イーストマン・コダック(米国)、アグフア・ゲバルト(ドイツ)、コニカ(日本)、富士フイルムのうち、現存するのは富士フイルムのみ。その背景に日本企業の競争優位性が見えてきます。
コダックに追いつけ追い越せと技術革新を行った富士フイルムは、1985 年頃にはすでに技術力で追い抜き、95 年頃には売り上げもほぼ同じだったといわれています。そして、2006 年に富士フイルムホールディングスと傘下の富士フイルムの代表取締役社長・CEO に就任した古森重隆氏が大改革を行うのですが、営業出身の古森氏は技術者に対して、「富士フイルムの本当に優れた技術とは何なのか、どう活かせるのか」を言語化するよう伝えたそうです。
結果的に酸化還元制御技術、ナノ分散技術、粒子形成技術などが明確になり、スキンケアや再生医療、高機能材料、光学・電子映像といった新しい事業においてそれらが再活用されました。
内部に蓄積された「企業特殊性の高い知識、技術、経験」を「新製品・新サービス市場」に応用したことで、デジタル化の波にも負けず、フィルム業界最後の1 社として生き残ったのです。
佐々木 日本企業は「人的資本経営」に近いものを実施してきたにもかかわらず、「失われた30 年」と呼ばれるほど成果につながらない時代を経てきたのは、日本企業が世界と比べて「デジタル化」に後れをとったことが影響していますか。
内田 デジタル化が進んで、日本の優れたモノづくりがなくなったかというと、そのようなことはありません。優れたモノづくりの現場ではAI やコンピュータが導入されており、そこに入力される技術や知識は、終身雇用の人材が試行錯誤の過程や結果で開発したものとなります。日本特有のアナログのすり合わせ技術やPDCA サイクルなどを活かしたベストなDX の解決策を導こうとしている過程だと思います。
とはいえデジタル化が遅れてしまった原因もあると思います。その一つはデジタルに対する拒否反応です。野中郁次郎先生と竹内広高先生の『知識創造企業』(東洋経済新報社)によると、ホンダ(本田技研工業)の「トールボーイ」という車は、「狭くても感覚的に広く感じられる快適な空間とは」を議論していくうちに、開発メンバーに暗黙知が蓄積され、それが「球体」というコンセプトに形式知化され、できあがったということです。この経験は、形式知中心のオンラインでの議論や数値によるシミュレーションでは、困難だと考えらえます。こういった事例から見ても、日本企業では「暗黙知はデジタルでは伝えにくい」と考え、IT の積極的な導入を不安視したのではないでしょうか。
もう一つの原因は、多くの日本企業がIT の技術者を社内で終身雇用するのではなく、外部のシステムインテグレーターに全面的に委託してきたことです。システムインテグレーターの技術者は汎用性が高く、コストのかからないシステムの構築を望み、企業独自の差別化や戦略を盛り込んだシステムの構築は望まないといった話を聞いたことがあります。
トヨタ自動車の2021 年の統合報告書には、クルマとさまざまなネットサービスを統合するために、全社で1 万8,000 人のIT 技術者を擁していることが記されています。モノづくりでも、主戦場がソフト分野に広がっているのです。今後は、企業の差別化に貢献するIT 系の技術者を社内でどれだけ育成できるかが、鍵となりそうです。
失われた30 年と人的資本経営の関係で、デジタル化以外の要因として経営者の考えが変化したことも挙げられます。私がインタビュー調査したある企業の事例です。バブル崩壊後、日本の企業が不振に陥った頃の話です。
その企業は創業から人の才能を重んじ、人を育てながら大きなイノベーションを次々と起こして世界的に有名な企業になりました。経営のトップが交代してからは、「企業価値経営」という名のもとに自社の株価、発行株式数を最大化することに舵を切って、金融市場に対するメッセージ発信を通じて関心を呼び、企業価値を高めていきました。新自由主義の考えにもとづく経営が新しい経営方法という地位を確立しはじめ、日本政府も後押しして皆がその方向に進んでいきました。
しかし水面下で何が起こっていたかといえば、研究開発や生産現場が弱体化していきました。現場は一銭一厘の世界で日夜努力しているのに、一方でトップの発信一つで自社の株価が億単位で跳ね上がる。そしてトップが金融市場に関心を強く持つことから、現場の士気は下がっていきました。
結果としてその企業は新規事業でグローバル競争に敗れ、従来の事業領域でもかつてのようなヒット商品がまったく生まれず、その後長期に低迷していきました。人的資本とそれにもとづく知識創造の方法を毀損していたと、考えています。その企業はいま、新たなトップのもと、時間はかかりましたが、またかつての良き人的資本経営に戻り、大復活し、好業績を上げています。
佐々木 少し視点を変えてみたいと思います。日本企業が抱えるミドル・シニア人材の活用に対して、大企業を中心に頭を悩ませている一方で、なかなか解決の糸口が見つかりません。手をこまねいている企業が多いなかで、古い技術を再活性化させる、日本が大切にしていたコア技術はもっと活かせる余地があるはずで、かつて活躍していた人が持っている技術なり知見を過去の陳腐化したものとして扱わず、再度活かせる機会を探し出す。このような発想こそが人的資本経営だと思うし、そのメッセージ性がとても重要だと思うのですが、どのように考えられますか。
内田 2010 年頃に、パナソニックがインドでエアコンを製造・販売して大成功をおさめた話があります。
当時のインドは新興国で、年収が日本円で200 万〜300 万くらいのいわゆる「新中間層」という人が多いなか、パナソニックの製品は例えばエアコンが数十万円以上の値段で売られていた。新中間層の人には手が届かない値段だったため、インドの家電売り場で日本製のシェアは1%にも満たなかったのです。サムスンやLG が市場を席捲していました。
ところがインドに派遣されたパナソニックの方が、生活研究所というのをつくって年収200 万、300 万円のインド人の生活ぶりを研究してみると、窓がなくて暗いところに、音がうるさいウィンドウエアコンが回っていて、それで涼んでいました。価格は4 万円程度。サムスンやLG 製です。インド人は、音はうるさく、少ない窓を犠牲にしてしまうが、値段を理由にそれを購入していたことがわかりました。
そこでパナソニックは、市場のニーズを最大限絞り込み、同社の過去の技術を活かして、デザイン性を高めた室外機設置型のエアコンを開発しました。静かで窓を犠牲にせず、しかも競合と同等の価格帯で。機能を適切に絞り込み、すでに開発費は回収されていると思われる旧来の技術を活用し、マレーシアのほぼ無人の工場で製造したためコストが低く、韓国企業のものよりもはるかに競争力がありました。最先端の技術にばかり目が行きがちですが、古い技術でも企業特殊性を有するものがあります。
こうした日本では「償却済みの技術」を再活用し、「価値あるもの」として新興国市場に持っていくことはとても重要でしょう。古いけれど企業特殊性のある技術などの再活用は、範囲の経済性によるコスト競争力をもたらし、さらなる競争優位性を構築します。また「古い技術」をよく知るミドル・シニア層の活用につながるでしょう。日本企業は最先端技術の開発と製品化を強く意識しますが、このことにも積極的になった方がよいと考えています。
佐々木 素晴らしいお話ですね。なかなかその発想には向かいません。どうしてもミドル・シニアの活躍領域を限定的に見てしまう先入観が、人材という無形資産の活かし方を見失わせていることに気がつかなければ、いつまで経ってもミドル・シニアの活性化は成し得ませんし、本質的な人的資本経営には至らないような気がします。
企業特殊性を最大限に活かす
佐々木 2022 年より経済産業省、金融庁、内閣官房が「人的資本経営」に関するガイドラインを明示しはじめました。政官主導ともとれる動向をどう受け止めていますか。
内田 本来、「人的資本経営」は答えありきで議論するのは難しい内容だと思います。長い歴史のなかで「人的資本経営」を捉え、評価し、「何を行うべきか」から議論することが重要です。気になるのは、バブル崩壊、アジア通貨危機、リーマン・ショックなどの影響からか、日本の経営者が自信を失い、短期的で確実に利益を確保できる単純なことにのみ答えを求めようとし、それを政府が後ろからサポートするように見えることです。業績が悪化したら、終身雇用を廃止して、リストラで利益を確保しようとか、非正規雇用の比率を高め人件費を抑制していこうということです。
短期的に確実に成果の出る施策ばかりを実施していては、日本企業の強みを活かしたイノベーションができず、長期的なグローバル競争から退出しなければならなくなります。「新しい時代のための新しい企業経営を長期的に考えること」が重要ではないでしょうか。
最後に1 点だけ、触れておきたいことがあります。内閣府や経済産業省から発信される伊藤レポートなどもそうですが、そもそも人的資本に関する定義が、しっかりとなされていないと思っています。
2015 年のアメリカ経営学会のジャーナルに、2014 年にサウス・カロライナ大学で開催された面白いシンポジウムの報告がありました。そのシンポジウムは、人的資本に対する定義や考え方が各所でバラバラになっていて、再整理しないといけないということで開催されたのです。
そこでは、人的資本の価値の源泉は汎用の知識・技術なのか、企業特殊性のそれなのかについても議論されました。参加者は当然、米国で活躍している研究者が多かったからだと思いますが、産業界は産業特殊性を意識し企業特殊性は意識していない、この議論は机上の問題でしかない、ということになりました。
職務主義と外部労働市場を多用する社会システムが形成されているので、企業も働く人も企業特殊性の教育・学習にコストをかけるのは非合理なものとなってしまいます。一方日本では、職能主義のもと、職務を定めず人物評価で新卒採用を行い、終身雇用制で内部労働市場を活用します。ここでは企業特殊性の教育・学習は合理的なものとなります。そしてこの方法は、後期産業革命以降の企業内部に企業特殊性を涵養し、競争優位性を構築するビジネスモデルに適合しています。
日本に話を戻しますと、人的資本の企業特殊性についての議論がほとんどなく、この結果、例えば人材育成に関して、企業特殊性を活かしたうえでの投資が重要である、という議論はまったく入ってこなくなります。もっといろいろな方面の専門家の知識が入って、建設的な議論を通じて発信されるとより良かったのでは、と思っています。
佐々木 最後にCHRO、人事部長、人事に携わる人に向けてメッセージをお願いします。
内田 「自社の強みの源泉は何か」「企業特殊性の高い知識、技術、経験は何か」をきちんと洗い出す必要があります。そして、「新たな時代を取り巻く環境」を把握し、「企業特殊性」と組み合わせることで、「どんな方向性に向かって、どんな新しいサービスを提供していくのか」という事業戦略をいま一度確認していただきたいです。
さまざまな価値観を持つ人材がいるなかで、企業特殊性の高い知識、技術、経験を持ち、高度な判断ができる人材をどうやって育てるのかという人材戦略を考えることが、今後必要になると思います。
リクルートに新卒で入社後、人事考課制度、マネジメント強化、組織変革に関するコンサルテーション、HCM に関する新規事業に携わった後、ヘイ コンサルティング グループ(現:コーン・フェリー)において次世代リーダー選抜、育成やメソッド開発を中心に人材開発領域ビジネスの事業責任者を経て、2013 年7 月よりパーソル総合研究所執行役員コンサルティング事業本部本部長を務める。2020 年4 月よりシンクタンク本部上席主任研究員。立教大学大学院客員教授。慶應義塾大学大学院経営管理研究科修了。
主な著書に『日本的ジョブ型雇用』(共著、日本経済新聞出版)がある。
専門分野は、戦略的人的資源管理、経営リーダー育成、人材アセスメント設計・評価、ピープルアナリティクス、組織開発。