人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」に関心が高まっています。ESG(環境・社会・企業統治)の観点から情報開示も求められ、企業は対応を急いでいます。この連載では書籍『日本の人的資本経営が危ない』(日本経済新聞出版)をもとに、「人的資本経営」から見た日本企業の歩みや世界の中で位置づけを踏まえ、日本企業が今後とるべき戦略などについて有識者インタビューを通じ解説します。
■保田隆明・慶應義塾大学総合政策学部教授
ファイナンスを軸にESG 投資、地域経営などの研究や執筆活動をされている慶應義塾大学総合政策学部教授の保田隆明氏に、海外から見た日本という視点を織り交ぜながら、人的資本経営の最先端事例と日本における人的資本経営の在り方に関して話をうかがった。
なぜ日本企業に人的資本経営の必要性が高まっているのか
佐々木 保田先生は、専門分野がコーポレートファイナンスやESG/SDGを通じた事業変革、ベンチャービジネスなどで、財務的な視点で研究と発信をされてきました。また、米国シリコンバレーに滞在されたご経験もあります。そのうえで、昨今の「人的資本経営」に関してどのように見ているのか、率直なご意見をお聞きしたいと思います。
いま、なぜ日本企業には人的資本経営の必要性が高まっていると考えられますか。
保田 端的に申し上げると、「海外企業に比べて収益性、成長性で見劣りするから」です。収益性、成長性を上げるためには事業ポートフォリオを変えていく必要があり、そのためには「新しい事業を立ち上げるための"人材"」、あるいは「新しい事業に適応できる"人材"」が必要になります。
私は、つい数年前まではシリコンバレーにいました。そこでは、新しい技術が耳目を集めがちな一方、新しい技術を獲得してもビジネス化できなければ収益につながらないことから、近年は人的資本経営にも注目が集まっています。
佐々木 日本企業は欧米企業と比べて、人的資本経営への対応は遅れていると思いますか?
保田 かつては先んじていたものが、いつの間にか欧米流の人的資本経営が主流となり、結果として出遅れてしまったという状況です。従来われわれ日本企業は「中長期視点での事業経営」を得意としていましたが、主に米国型のコーポレートガバナンスへの適用に一生懸命になる過程で、株主から「短期利益」を求められ、その間にいわゆる人的資本経営を行う余裕が失われてしまったからです。
例えば欧州のシーメンス(ドイツ)、ネスレ(スイス)、ユニリーバ(英国)では、10 年、20 年、30 年先のメガトレンドを見据えて、「社会はこう変わるから、われわれの事業をこう変えて、それに適合する人材を教育しよう」という経営を行ってきています。一方、日本企業は、こうした目先の対応に追われ、中長期的なメガトレンドを予測して事業を創造することをやらずにきてしまいました。
判断軸は「赤字じゃなければよい」から「ROE=8%」へ
佐々木 「ROE 経営」の重要性もうたわれていますが、これは「長期投資家視点」と一致するものですか。
保田 一致します。目先のROE を上げようとするとESG 経営は難しくなります。なぜなら、ESG 経営とは、ESG 領域の事業への投資を行うことを意味しますので、費用先行型となるからです。ただ、それは10 年、20 年先の種まきを意味します。
私たちはよく「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)」の概念を、市場成長率」と「市場占有率」の高低からなる4 象限マトリクス「花形」「金のなる木」「問題児」「負け犬」を用いますが、ESG 経営に通じる事業戦略は、市場成長率「高」&市場占有率「低」の象限である「問題児」に該当します。
2017 年頃のテスラ(米国)への評価は「EV(Electric Vehicle:電気自動車)の時代はこの先来るけれど、まだ先だよね」という状況でした。「まだ」というのは「いまやるべきではない」ということではなく「いまは儲からない」ということです。そこから5 年後の2022 年現在、利益が出て、社会からも必要とされる事業になりました。5 年前までは問題児だったEV の事業が、いまや時価総額 100 兆円に迫ります。経営者は、「いまは問題児であってもこの事業は5 年後10年後に必ず儲かる」という「ストーリー」を社内外に説明する必要があるでしょう。
佐々木 確かに日本企業はROE を高めるために、自社株買いなどROE の分母を減らすことから優先しがちで、分子にあたる将来の利益や成長に対して、いまは問題児でも、まいた種が5 年、10 年後に出てくることには注力してこなかったということですね。
保田 そういうことです。日本企業全体で見たときに、人件費は売り上げの3 割程度を占め、利益に与える影響も大きい領域です。したがって、人件費はなるべく抑制したい費目になります。ただそこばかりにとらわれていると、種まきに支障がでるということです。
佐々木 問題児は将来の種まきであり、それを開花させる、マネタイズするために必要なのが人材である。わかっていることとはいえ、日本企業も早くそこにたどり着かなければいけないですね。
保田 そうですね。マネタイズをするのが誰の仕事かというと、経営陣の仕事です。経営陣がA という事業をやめてB という事業にシフトする意思決定をした際に、A という事業にいた人を、アジリティ(俊敏性)をもってB という事業に適応させる能力が求められます。日本企業は2000 年くらいまでは「ジェネラリスト思考」でした。何事にも対応できるという意味合いだったと思うのですが、スペシャリスト集団には勝てなくなりました。事業の選択と集中や、1 位になれる領域だけで勝負するような事業戦略がもてはやされたのもこの時代です。
しかも、スペシャリスト型経営は、その後進化しています。かつての、スペシャリスト型の米国では、ジョブスクリプション(職域・職能)がはっきりしていますので、雇用契約書に職種が書かれていて、それ以外の仕事はやらないという考えでした。A 事業部がなくなれば転職していたわけです。そこがいま、変わってきています。いわゆるT字型人材化ですが、その方が、企業は新規採用に悩む必要はなくなりますし、従業員もストックオプションで大きな利益が得られます。こうなると、経営陣は事業転換がやりやすくなります。
佐々木 経営陣の戦略を具体化していくのは従業員。海外の企業と比べて、あるいは過去の日本企業と比べて、従業員全体の事業をマネタイズする力は弱まっているのでしょうか。それとも、もともとないのか。どう見ていますか。
保田 データで検証はできていないのですが、「問題児」である事業の将来性を経営陣が従業員に対して説得できさえすれば、従業員は一丸となって邁進していくと思います。そのメッセージ性をどうやって打ち出していくかが、極めて重要だと思います。
佐々木 経済産業政策局が2022 年4 月に調べたデータによれば、PBR が1 倍未満(純資産>株式時価総額)の企業の割合は、米国(S&P)3%、欧州(STOXX)約2 割に対して、日本(TOPIX)は約4 割、東証1 部上場企業では、PBR0.5〜0.6 倍が最頻値となっているそうです。PBR が1.0 倍よりも高い企業とそうではない企業は、一体何が違うのでしょうか。
保田 株式市場は「PBR」が1.0 倍を切る企業を、「将来、株式資本を増やすことができない企業」つまり「利益を上げられない企業」だと認識します。PBR とROE の関係性を示した研究結果を見たところ、ROE が8%を超えると、PBR も高くなることが明らかになっています。
株式市場はROE をしっかりと見ていて、平均より稼いでいる会社の株を買います。株が買われることでその企業のPBR が上がります。ROE の構成要素は3つです。「利益率」「資産を有効活用できているか(資産回転率)」「借入金を有効活用できているか(レバレッジ)」です。日本企業と米国企業を比較すると、日本企業は「利益率」に問題があります。
その理由は2 つで、一つには薄利事業の売却を決断できていないことです。売却する事業に紐づく人材の処遇が足かせになっているため、心的要因が大きいといえます。もう一つは、GAFAM のような収益率の高い事業を仕込めていないことです。日本企業はこれまで「赤字じゃなければよい」と考えてきましたが、判断軸が「ROE = 8%」に変わったことを意識して経営するのがよいでしょう。
情報開示の目的は指標の達成ではなく収益向上への道筋を示すこと
佐々木 「人的資本経営」の主幹は誰なのでしょうか。
保田 それは「経営者」です。経営陣がメガトレンド予測をもとに将来の事業ポートフォリオを創造し、人事部門はそれに対応する人材の採用や育成などの人材戦略を実行に移すことが急務です。
象徴的な事例が、世界最大のスーパーマーケットチェーンであるウォルマート(米国)です。2020 年、コロナ禍においてお店にお客が来なくなりました。当時、オンライン販売ではAmazon(米国)に対して後塵を拝していましたが、打開策はオンラインショッピングビジネスへのシフトしかありませんでした。そこで、店舗を実質的に倉庫化しました。
従来のオンライン戦略を考えると、オンラインショッピング用の倉庫をつくって、そこに人材を雇用するわけです。しかしそれではカニバリゼーションも起きます。また、もともとは旧来型モデルですので、既存の人材を新しいオンラインビジネスに対応させるのは難しかったわけです。しかしコロナ禍のタイミングで、他の選択肢がなくなったため、既存の従業員をオンラインに対応させたところ、これが見事に軌道に乗りました。本気でAmazon に対抗しようとしたからです。
バケーションレンタルのオンラインマーケットプレイス企業であるAirbnb(米国)も、サービス領域を近距離の旅行をメインに絞り、事業のフォーカスをガラッと変えて、それに対して従業員が適応していきました。結果的に業績がV字回復して上場を果たしました。経営陣が時代の変化に合わせて新たな事業を構築し、それに従業員が適応できた好事例です。
佐々木 いま、企業が最も気にしていることが、人的資本に関する情報開示です。開示義務項目もあれば任意の独自性項目もあって、どれをどう選んで開示するのか、投資家から評価してもらうための項目は何か、決めるために右往左往している状態に見えます。
情報開示する項目の決め方に関して、企業が気をつけるべき考え方はありますか。
保田 世界最大のコンピュータネットワーク機器開発会社であるシスコシステムズは、ESGのスコアの優等生です。何が最も貢献しているかというと、ESGのSの領域の人的資本開発です。どういう点が評価されているかというと、一つには従業員向けトレーニングの充実です。従業員の社内トレーニングの他にも従業員のウェルビーイングに関するプログラム、リスキリングの研修プログラムが実施されていて、参加率も高い状態です。また、ダイバーシティのある組織づくりという点でも評価されています。
先ほどの佐々木さんの質問に戻ると、どういうものを開示すべきなのかという問いは、人材を育成するためのプログラムが適切に存在しているかどうか、そして、研修プログラムが社員のスキルアップや満足度向上に寄与したかなど、これらの情報開示が評価対象となるでしょう。
佐々木 シスコシステムズのように充実したプログラムで、かつ実践されていてアウトカム(成果)も出ていると、開示にも前向きになれますね。一方で、参加率はすぐにアウトプット(指標化)できるものの、アウトカムまで追求していくのは簡単ではないですね。でもそれを投資家は見たがっている。
また、アウトカムが他社と比べて劣位に感じる場合は、横並びで比較されるのを懸念しますので、有利なアウトカムしか開示しないことも考えられますが、その点で投資家はどう見ているのでしょうか。
保田 現状としてアウトカムが芳しくない企業が多いことは、投資家もある程度、予想していますし、織り込み済みです。したがって、下手な化粧はしない方が賢明です。一方、投資家が知りたいことは、「今後の実行プラン」です。現状の数値と今後のプランの説明です。
単純に「女性比率を上げます。そのための行動プランはこれです」という話ではなく、打ち出す戦略を明確なストーリーで示すと効果的です。気をつけるべきは、開示指標の項目達成自体を目的化しないことです。企業経営の目的は収益を向上させることですから、投資家としては「それをやることで、どう収益向上につながるか」を見ています。
佐々木 例えば、女性取締役の比率が30%以上だと業績が良好な企業が多いのに、取締役より下の女性管理職の比率では、業種によって一概に業績は高くはないというデータもあります。自社が新たにどのような事業を展開し、その事業をより強く推し進めていくためには、女性リーダーの力が必要なのである、というストーリーを持たなければ説得力はないですからね。
保田 日本企業で人的資本経営を語るインタビューやレポートを拝見していても、その目的に「収益力と成長性の向上」という意味合いの記載がないことに、やや懸念を感じています。何のために人的資本経営をやるかといえば、その答えは一つで、「収益性・成長性向上につながるから」です。そうでなければやる必要がないはずです。ウェルビーイングを高める、働き方改革に取り組むなど、どれも重要ですが、投資家は、「収益向上につながるのか」を見ています。
実際の研究に、ドイツ企業を分析対象として、取締役会での女性比率が30%以上の「クリティカル・マス」を達成した企業とそうでない企業では、達成企業の方が業績は高いことが報告されています。また、取締役会の女性比率を向上させはじめた当初は、企業の業績にはネガティブな影響があること、そして、女性比率が10%を超えない企業では、業績はむしろ低下する可能性があるというデータもあります 。ダイバーシティ&インクルージョンでも、「ダイバーシティスコアが高い組織は、イノベーティブであり、イノベーションによる売上比率が高くなる」というデータもあります。人的資本によって、収益にどのように結びつくのかといった収益向上のストーリーが重要です。
ダイバーシティが男性にとって脅威な存在になる
保田 人的資本経営のダイバーシティ、特に女性活躍に関しては、日本企業に特有の文化があることを無視できない実態があります。ハーバード大学のエドモンドソン教授の著書『恐れのない組織』(英治出版)のなかに、心理的安全性という話がありますが、男型社会が長らく続いている日本企業が難しい点として、女性の管理職比率を高めようした瞬間に男性が「男らしさ」が脅かされると感じ、抵抗するようになる傾向が考えられます。
実際に、心理的安全性は男らしさを競う企業文化においては、組織を不安定なものにするという研究もあります。「男らしさ」が脅かされていると感じたとき、女性への嫌がらせなどが起こり、逆効果になるという懸念があります。脅かされていると感じないように、上手に導入していく配慮も必要です。
佐々木 なるほど、それは初めて聞くような興味深い話ですね。それならある意味で逆効果になりますね。このような表面には見えにくい阻害要因が潜んでいて、日本では思うようにダイバーシティが進まないのかもしれないと気づきました。
ところで、話は変わりますが、「モノ言う株主」投資家に関して、そのスタンスは近年、変わってきているんでしょうか。
保田 はい、すでに変わってきていますが、来年、再来年はもっと変わると思います。2022 年の欧米での株主総会は、ESG 対応ができていない企業に対して、株主が「ものを言う」シーンが増えてきていました。次は日本にもくると思います。個人的には、むしろ起きた方がいいと思います。日本は外圧がかかって初めて、いろいろといい方向に改善されることが多いですから。
人事は「ダイバーシティ&インクルージョン」の推進と組織変革の設計を
佐々木 人的資本経営を推進する人事部門に対してメッセージをお願いします。
保田 人事部門がリードをとって取り組めることの一つが、「ダイバーシティ&インクルージョン」です。前述の通り、業績につながるからです。推進のための「社内コミッティ」を設計することをお勧めします。
もう一つ人事部門が取り組むべきことは、組織変革のための制度や研修の設計でしょう。組織変革には「システム的」「文化的」「行動的」という3 段階でアプローチしていくことがよいと考えられています。システム的とは、育休やテレワークの導入など制度を整えていくこと。文化的とは、アンコンシャスバイアス(無意識の偏ったモノの見方)を変えるようなアウェアネス(気づき)のトレーニングなど。刷り込むくらい実践していただくと、組織は行動的に変革していきます。
ここ数年、トヨタ自動車をはじめとした企業から「パーパス経営」といった言葉が聞かれるようになりました。そもそも企業が収益を向上させるのは、「パーパスを実現するため」です。陰に隠れていたパーパスやミッションにいま一度着目し、収益を上げるための「拠り所」としてもらえたらと思います。
リクルートに新卒で入社後、人事考課制度、マネジメント強化、組織変革に関するコンサルテーション、HCM に関する新規事業に携わった後、ヘイ コンサルティング グループ(現:コーン・フェリー)において次世代リーダー選抜、育成やメソッド開発を中心に人材開発領域ビジネスの事業責任者を経て、2013 年7 月よりパーソル総合研究所執行役員コンサルティング事業本部本部長を務める。2020 年4 月よりシンクタンク本部上席主任研究員。立教大学大学院客員教授。慶應義塾大学大学院経営管理研究科修了。
主な著書に『日本的ジョブ型雇用』(共著、日本経済新聞出版)がある。
専門分野は、戦略的人的資源管理、経営リーダー育成、人材アセスメント設計・評価、ピープルアナリティクス、組織開発。