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「本能寺の変」で消滅 織田信長の貿易立国構想

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「本能寺の変」(1582年6月)は、天下統一を目前にした織田信長が明智光秀のクーデターで倒れた有名な事件だ。その真相は約440年後の現在も解明されていないが、当時の複雑な政情や信長が目指した統治構想への研究は進んでいる。2023年時点の「信長学」を追った。

光秀単独か、朝廷黒幕か、足利将軍義昭か

江戸時代から現在に至るまで人々の関心が高い本能寺の変のナゾは、最も有名な歴史ミステリーといえる。いまだ解き明かされない背景を三重大学の藤田達生教授は「一般の歴史ファンからアカデミックな研究者まで予断の思い込みにとらわれすぎている」と話す。

これまで光秀の単独決行説から朝廷黒幕説、15代足利将軍義昭、豊臣(羽柴)秀吉(最大の受益者)、徳川家康(家康謀殺の陰謀を返り討ち)、斎藤利三(光秀の重臣で発案・企画・実行)、本願寺・宗教勢力、オランダ、イエズス会――など10を超える仮説が取り上げられてきた。最近の20年間は陰謀説が下火になると単独説が見直されるパターンが続いているが、23年時点では光秀単独、朝廷黒幕、将軍義昭の3説にほぼ絞られつつある。

単独説は、信長から日ごろパワーハラスメントを受け続けていた光秀が、チャンスを捉えて反逆に踏み切ったというものだ。ただ、この怨恨説は江戸時代の軍記物からの転用が指摘されており史実とは言い難い。「光秀も戦国武将のひとりだから、主君のスキをみて天下を狙った」との指摘もある。しかし、藤田教授は「戦国大名は皆がみな、天下を狙わねばならないだろうか。予断に基づく感情論にすぎない」と否定する。重臣筆頭格の光秀は最も重要な畿内を担当していただけに、信長を討つのはさほど困難では無かっただろうが、クーデター後の生き残り策を考えれば、バックにより大きな権威が欠かせないのも確かだ。

朝廷陰謀説は、正親町(おおぎまち)天皇の譲位問題や尾張地方などで採用している「三島暦」を公式に採用するよう信長が迫って両者は緊張関係にあり、朝廷が光秀を唆したというものだ。「本能寺」の当日に、朝廷は光秀に京都内の秩序維持を命じてもいる。しかし、正親町天皇自身が生前譲位を望んでいたと説く反対説が出ている。信長は朝廷の費用を賄い、朝廷側は大坂・本願寺との和睦を仲立ちするなどウィンウィンの関係が続いていた。

将軍義昭説は一番有力に思える。信長に追放された足利幕府・最後の将軍は、毛利家の保護で「鞆(広島県)幕府」を開き、権威も維持していた。実際、光秀がクーデター後に将軍の権威を利用すべく義昭の帰京を期待した文献・史料も残っている。ただ、事前に光秀と義昭がどれだけ打ち合わせていたか。本能寺の変後も肝心の毛利家は動かず、秀吉の光秀討伐(中国大返し)を黙認した。藤田氏は様々な黒幕説について「織田家随一の宿老(光秀)が、失敗すれば全て失うほどの事件に、誰かの命令のみで手を染める決定的な理由が見当たらない」と指摘する。

織田政権をめぐる3層構造の対立図式

現在も関連史料の発掘は続いており、全国制覇を目前にした織田家内の権力争いも浮き彫りにされつつある。地方大名の戦いが、織田家重臣同士の派閥争いに発展したケースが「四国問題」だ。四国支配を目指して快進撃を続ける長宗我部元親と防戦一方の三好一族は、それぞれ中央の権威・権力に支援を求め、光秀、秀吉と連携した。光秀・秀吉の関係が悪化すると、すかさず義昭が介入して内部離反を促した。戦国大名同士の争い、織田家の内部抗争、信長と義昭の権威を巡るせめぎ合いという3層構造がリンクしていた。藤田氏は「信長自身も重臣同士の派閥争いを制御しきれなくなっていたのではないか」と推論する。カリスマ的トップに引き立てられた側近同士が争い、結果的にトップ交代にまで進んでしまうことは現代の企業経営でも見られる。

果たせなかった「重商主義」の夢

歴史に「イフ」は禁物だが、本能寺の変が起きなければ、日本史はどの方向に進んだか。信長が目指した経済政策、統治構造についての研究も始まっている。藤田氏は「鎌倉、室町幕府の将軍とは百八十度異なる権力を目指していた」とみる。まず信長は畿内では「検地」を開始し流通経済の透明化を図った。地主らの中間搾取分を制限、廃止するように圧力をかけることで、生産者の意欲を刺激し経済の活性化につなげる狙いだ。奈良などで始まった「信長検地」の実務を担当したのが光秀だった。この時点の光秀は、信長の統治構想を最もよく知る理解者だっただろう。

新たな社会構造を支えるのが、天から政治の代行を任されたとする「預治思想」の考え方だ。「天から国土領有権を預けられた天下人が、器量に応じて大名以下に国・郡の領知権を預ける政治は信長から始まった」と藤田氏。本来、武士の頂点である鎌倉・室町将軍の一番重要な任務は、武士に対し先祖代々の本領安堵と新領の宛行(あてがい)という既得権の公的承認だ。信長はこれを一変して、配下の大名を自由に国替えできるようにした。織田家重臣では柴田勝家を北陸、羽柴秀吉は中国、滝川一益も関東地域へとそれぞれ本拠地を移されている。藤田教授は「江戸初期の池田光政ら開明派の大名には『領地は天からの預かり物』といった考えがみられる」と話す。信長は30年ほど先の時代を見ていたのかもしれない。

実現しなかった構想は「貿易立国」だろう。本拠地を安土城から大坂へ移そうとしていたことは知られている。「海外貿易と産業・流通が盛んな畿内を結び、重商主義の展開を目指していたのではないか」と藤田氏。安土と大坂を結ぶ交通インフラは淀川。「近江を支配すれば、北の日本海側の流通経済も掌握できる」と藤田氏は読む。信長の合戦は領土に限らず、地域経済圏の支配を狙ったケースが少なくない。典型的なのは伊勢湾経済圏における主導権を巡る今川義元との「桶狭間の戦い(1560年)」や琵琶湖の水運を争った「姉川の戦い(1570年)」などだ。

実際、天下人の後継者となった秀吉は大坂城を築いて本拠地とした。しかし、その後の徳川幕府は鎖国令を敷いて信長の構想は実現しなかった。

(松本治人)

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