出産にまつわるエピソードでよくあるのが、妊婦本人はケロっとし、周囲が慌てふためいているというものだ。私自身、長丁場で大量に出血し、あと少しで総合病院送りというお産を体験した。しかし、その時は割と冷静でまずは食事を摂り体力を回復しなければと考えていた。
本書『母性の科学』(西田美緒子訳)によると、この妙な落ち着きは自然なことだという。本書は妊娠・出産を通して女性の心身がいかに変化するかを生物学的に読み解く。胎盤の仕組みや母性本能、脳の再編、母親を支える社会的ネットワークといった幅広いトピックについて、脳科学などの最新の研究知見と著者の経験を交えてユーモラスに語っている。
著者のアビゲイル・タッカー氏は4人の子どもを産み育てたライターで、『スミソニアン』誌の特約記者。前著『猫はこうして地球を征服した』(インターシフト)は米ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなった。
ストレスに強くなる母親
母親は妊娠・出産を経て大きく変わる。変化の最たるものが「ストレスに強くなる」ことだ。氷水に1分間手を浸す実験では、母親のストレス値は子どものいない女性よりも低い。不安を誘う写真を見せられても、母親は平静を保つという。著者は地震に遭遇しても感情的にならずに子どもを守れたエピソードなどを挙げ、母親の危機への耐性の高さを示していく。
母親がストレスに強くなる理由は解明途上だが、子育てに比べればどんな脅威もたいしたことではなくなる、との見方もあるようだ。脅威の際に、母親が子どもの安全「だけ」に集中することは、精神面でも命を守るうえでも合理的に思われる。危機に直面したら何をすべきかを冷静に判断し淡々と行動する。こういう姿が「母は強し」と表現されるのだろう。
嗅覚、聴覚が鋭くなる
変化はほかにもある。嗅覚が鋭くなり、色の差を見分ける能力が大幅に上がる。聴覚も上がり、赤ちゃんの泣き声のみならず微細な物音まで聞き取れるようになる。赤ちゃんの状態に集中し、異常にいち早く気づくための変化と考えられる。
このために母親の認知機能が部分的に損なわれる点も見過ごせない。言葉や記憶に関する能力が一時的に低下するのだ。要は忘れっぽくなるのだが、妊娠前の能力と母親として必要な能力とを「交換」していると考えれば、むやみに嘆くべきことでもないだろう。
脅威に強くなり感覚も鋭敏になった母親は、子育てにおいて無敵だと錯覚しそうだが、もちろん違う。「継続的に」強いストレスにさらされると、母親から母性が失われることがマウスを使った実験から分かっている。人間の場合は、貧困などで「使い捨てオムツ」が使えないことが母性を脅かす最大のストレスになるそうだ。赤ちゃんの世話のために「特別仕様」になってはいるが、母親は心身をぎりぎりまで変化させた繊細で複雑な存在だと心得たい。
本書を読めば、母親自身、自らのふるまいに理解が深まるはずだ。身近に母親がいる人にもぜひ手に取ってもらいたい。
情報工場エディター。11万人超のビジネスパーソンに良質な「ひらめき」を提供する書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」編集部のエディター。