「毒殺」は推理小説の古典的なテーマだ。衝動的な殺人と違い、冷徹で計画的に行われ、対象が死ぬまでに逃げることもできる。こうしたトリックを探偵や警察が暴いていく過程は、手に汗を握るものだ。
本書『毒殺の化学』(五十嵐加奈子訳)は、そんな推理小説顔負けの、毒殺に関するノンフィクションだ。シアン化合物やヒ素など11の毒を取り上げ、その毒を用いた実際の殺人事例と、人体への影響などの化学的解説が一緒に語られている。著者のニール・ブラッドベリー氏は、米ロザリンド・フランクリン医科学大学の生物物理学教授。
ソムリエのように毒を味わう
トリカブトは植物から採れるが、わずか1〜2mgで致死量となり「毒の女王」と呼ばれている。この毒を使ったある相続事件が紹介されている。
1881年、医師だったラムソンは、トリカブトを砂糖と偽り義弟を毒殺した。ラムソンは人知れずモルヒネ中毒に陥っており、借金まみれになっていたため、相続財産を増やそうとしたのだ。ラムソンは学生時代の毒物学の講義で、トリカブトが「検出されない完璧な毒」だとの知識を得ていた。
確かに当時、この毒の試験法は確立してなかった。しかし、毒の正体は暴かれる。毒物学の権威である一人の博士が、なんとソムリエのように、被害者の胃の内容物を口にして毒を言い当てたのだ。結果、マウスによる実験でトリカブトと裏付けられる。博士は自分の胃が焼けるような感覚を7時間も味わったというから、人間離れした力技だ。
トリカブトが体内に入るとどうなるのか。トリカブトは、神経や心臓の細胞膜にある特定のタンパク質と結合し、生体電気を阻害する。生体電気が阻害されると、細胞は正常に機能しなくなる。顔全体がしびれ、視界がぼやけ、心拍数が乱れるといった、読むだけで胸が苦しくなる中毒症状が解説される。毒殺がいかなるものか、リアリティーを持って伝わってくる。
最も高価で致死性の高い毒は
毒殺を実行する人の、検出不可能な毒への探求は際限がないようだ。そのことが分かるエピソードが、旧ソ連・KGB(国家保安委員会)の元中佐リトヴィネンコの謀殺である。
英国情報機関の情報提供者として暮らしていたリトヴィネンコは2006年、紅茶を飲んだ後に長く苦しみ、死んだ。食道に潰瘍ができ、遺体の内臓もボロボロで毒殺が疑われたが、誰も原因が分からなかったという。英国唯一の核兵器センターの協力で、ようやく命を奪った毒が判明する。それは「ポロニウム210」、すなわち放射性物質だ。
ポロニウム210は、非常に高価で一般人はまず入手できない。シアン化合物(青酸カリなど)の25万倍もの殺傷力を持ち、放射能によって周囲を汚染する。調査の結果、製造元はロシアの原子炉だと判明した。毒殺の背景に何があったのかを想像してしまう。
犯人だけでなく、捜査員、科学者、時には国家の思惑が絡み合う毒殺のありようが、本書を通じて見えてくる。「事実は小説よりも奇なり」な複雑な物語を、ぜひ味わってみてほしい。
情報工場エディター。医療機器メーカーで長期戦略立案に携わる傍ら、11万人超のビジネスパーソンをユーザーに持つ書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」のエディターとしても活動。長野県出身。